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【桜田門外の変】
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大老の首
薩摩で有村と言えば、有村俊斎(海江田信義)があまりに有名です。
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実際この2人、有村雄助・次左衛門兄弟は、俊斎の実弟でした。
次左衛門は、安政6年(1859年)の秋、帰国していた長兄・俊斎(のちの海江田信義)と母に、「今年はもう帰れない」と書状を送っています。
月日は進み、再び安政7年(1860年)へ。
井伊直弼の暗殺計画は、水戸浪士や有村兄弟の間で秘密裏に進行。
いよいよ3月に入って冒頭のとおりに実行され、井伊直弼の首は有村次左衛門の手によって落とされたのでした(有村雄助は襲撃自体には参加せず)。
井伊の首を刀の切っ先に突き刺し、勝ちどきを上げる次左衛門。
その場を立ち去ろうとすると
「待て……」
倒れていた彦根藩士・小河原秀之丞が息を吹き返しました。
そして首を取り返すため、有村の後頭部を切りつけます。
小河原は、即座に、水戸藩士・広岡子之次郎らによって滅多斬りにされました。
後頭部を切られた有村は、自らの命も「もはやこれまで」と悟りました。
次左衛門の死
有村は腹を切るため、雪の上に胡座をかきました。
小刀を手にして切腹しようとしたのです。
が、皮の稽古胴を着用していたため、思うように出来ません。刀を地面にさして寄りかかって自決しようとしたものの、これも失敗しました。
介錯をしてくれとジェスチャーで頼むものの、誰もそんなことをする余裕はありません。
有村は死ぬことができず、水のかわりに雪を手に取ると口に押し込みます。
首を抱え、体を引きずるようにしてその場を離れました。
「誰か、介錯を頼みもす……」
これが有村最期の言葉でした。享年22。
なお、襲撃に参加した水戸浪士17名+薩摩浪士(有村次左衛門)の1名あわせて18名は、ほぼ全員の16名が事件中かその直後に亡くなっています。
襲撃で傷を負ったり、自刃したり、斬首の刑になったのでした(逃亡した2名は天寿を全う)。
雄助は切腹
井伊直弼の死は、極秘事項として隠蔽されました。
大老解任と“病死”の公式発表まで必要だった期間は二ヶ月。
とはいえ、事件は誰の目にも明らかです。
登城する大名たち、町人たち、彼らは血に染まった現場を見ているわけで、そんなことをしても隠しきれません。
町人たちは川柳を詠んで、その死を茶化すほどでした。
井伊掃部(=いい鴨)と 雪の寒さに 首をしめ
この急報を聞いた大久保利通は、久光に「出兵の好機!」と進言しました。
が、当の久光は激怒していたのです。
「有村兄弟は、とんでもない不忠不孝である」
久光自身、兄・斉彬と対立した井伊直弼に好感情はありません。
しかし、ここまでやれとは言ってないし、思ってもいない。
必死になって精忠組の暴走を抑えたのに、何を勝手なことをしでかしてくれたのか、と怒り心頭に発して当然のことでしょう。
久光の藩士コントロールは徹底しています。
井伊の死を受けて、水戸藩士と共に京都を目指していた有村雄助らは、伊勢・四日市で待ち伏せていた薩摩藩士によって捕縛。
水戸藩士は江戸に送られ、有村雄助は伏見の薩摩藩邸、そして薩摩へと連行されます。
そして万延元年(1860年)。
幕府の手は薩摩までも及びました。
大久保ら必死の助命嘆願も虚しく、有村雄助は藩命により切腹させられるのです。
享年26。
弟二人を同時に失った兄・俊斎も辛かったことでしょうが、手紙を貰った母もまた辛し。
薩摩から見た「桜田門外の変」とは、藩にとっても望んではいない最悪の結果。
ゆえに有村兄弟の名前を聞く機会も少ないのかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)