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【川路聖謨】
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ピストルで喉を撃ち抜き
慶応3年(1867年)。
この年は聖謨にとって、いよいよ最期の崩壊を迎える辛い月日の始まりでした。
三度目の中風の発作が起き、ますます体調が悪化。年末には弟・井上信濃守清直を亡くします。
外国奉行を務めたこの弟は、ハリスの応接に当たった名外交官でした。清直は治安悪化する江戸の対応にあたり、寒い中激務をこなしたために風邪で寝込み、命を落としたのです。
あけて慶応4年(1868年)――。
【鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍が敗走した知らせが届きます。
かつて聖謨が期待を寄せていた慶喜は、味方を見捨てるように軍艦で江戸に逃げ帰ったのです。
幕臣、そして江戸の民は慶喜の不甲斐なさに呆れ返りました。
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そんな中、聖謨は「死」を意識するようになります。
もはや七十を超え、何もできない。
自虐的な思いと悲痛は、慶喜の逃走により頂点に達していました。二月に入ると聖謨は「頑民斎」と号しています。
頑固な民――そう名乗る心境はいかばかりか。
幕府への忠節と絶望が交錯する中、聖謨は『述懐』と題した詩歌を揮毫し、友人知人に贈り始めたのでした。それはまるで、身辺整理をするような行為です。
そして江戸城攻撃の日、川路聖謨は武士として腹を切ると、ピストルで喉を撃ち抜き、命を絶ったのでした。
妻・さとが銃声を聞きつけ駆けつけ目にしたのは、右手にピストルを握りしめ、鮮血に染まった夫の姿。
愛する夫の後を追いたい。
さとはそう思い詰めるものの、異国で学ぶ太郎を思い、踏みとどまります。
そして淡々と、愛する夫を失った悲しみを日記に描き続けたのでした。
忘れられた名外交官とその思い
川路聖謨の凄絶な死は、武士として幕府に殉じたものとみなせます。
少し長くなりますが『述懐』を引用してみましょう。
述懐
生替わり死にかわり来て幾度も
身を致さなん君の御為に
二荒山神(ふたらやまかみ)もあわれと見そなわせ
露の此の身もつくす真心
病床に平臥して既に四年
七旬の衰日に潜然たり
君恩山岳 毫(すこし)も報じ難し
徒(いたず)に茲(こ)の身を致して九天に帰す
廟謀を嗟嘆(さたん)するも禁ずべくも無し
朝昏泣血の七十翁
児孫国の為に身を以て殉じ
汗に愧(は)じず寸忠を尽くせ
慶応四年二月 川路頑民斎聖謨
慶喜が逃げ帰り、世間の嘲笑の的となり、福沢諭吉を歯ぎしりさせた。
そうした不甲斐なさと比べると、高潔な武士道を見せられたような気もします。
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半身不随であり、もはや古希を過ぎている。生き延びたところで、何ができよう? どうせ生きてもたかが数年。そんな思いは感じられます。
前述した『述懐』末尾には、己を伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)になぞらえています。
敬斎を頑民斎と改めて、
天つ神に背くもよかり蕨つみ
飢えし昔の人をおもえ
伯夷・叔斉は、武王が紂王を放伐して天下を制した【殷周革命】を否定し、山に隠棲すると蕨等の山菜だけを食べ続け、餓死しました。
儒教で聖人とされるこの兄弟の心境は、後世さんざん議論されていました。
彼らは己の義を信じ、穏やかに死んでいったのか?
それとも憂悶と怒りのうちに死んだのか?
あえてこの故事を投げかけてきたことを踏まえると、川路聖謨の心境が見えてきます。
若くして即位した明治天皇を讃え、日本はこの新帝のもと新しき国になると書き残しています。
そんな達観と希望のみならず、薩摩への怒りと憎しみも綴られています。
やつらは裏切り、策謀により幕府を朝敵に貶めた。
なまじ将軍継嗣問題で共に慶喜を推していただけに、薩摩藩への憎しみは、ただならぬものがありました。
川路聖謨は樺太を含め、北方領土を守り抜くことを重視していました。
それを明治政府はどうしたか?
イギリスの介入を受け、樺太をロシアに引き渡してしまったのです。
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川路聖謨が奮闘した時代から150年以上を経ても、北方領土はまだ日本とロシアの間で、棘のように刺さったままです。
幕末をあつかったものにせよ、海外の脅威が出てくるタイミングは、ペリー来航が起点とされるものばかりなのです。
幕府がいかにロシアとの外交に力を入れてきたか。
そこまで振り返って、その時の知恵を思い出してこそ、本当の意味での川路聖謨顕彰になるのではないか?
どうしてもそう考えてしまうのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
川田貞夫『川路聖謨』(→amazon)
中野好夫『川路聖謨』(『ちくま日本文学全集55』より)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
他