大久保利通

大久保利通/wikipediaより引用

幕末・維新

大久保利通49年の生涯まとめ~紀尾井坂に斃れた維新三傑の最期は自業自得なのか

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大久保利通と島津久光から見た幕末とは

島津久光に協調した大久保利通は、どんな動きで薩摩藩を支えていったのか。

その動きを見てまいりましょう。

◆久光の上洛

安政の大獄】で処断された一橋派が息を吹き返すと、久光は動きました。

このとき西郷隆盛は「地ゴロ」と久光を小馬鹿にし、流刑に処されています。

しかし、結果的にこれは大成功をおさめます。

文久2年(1862年)、春、上洛した久光は暴発する精忠組を処断しました。

残酷な悲劇とされるものの、処断した剛腕により、久光自身の存在感は増したのです。このころの久光は幕政の立て直しを考えていました。

同年に【生麦事件】が発生し、その翌年【薩英戦争】へ発展。

このとき薩摩藩には新たな選択肢が生まれました。

当時、イギリスは慎重な幕府に手を焼いていました。

貿易を進め、大英帝国の傘下に組み込みたいのに、幕府は警戒してなかなかガードが固く、しまいにはフランスへ接近していきます。

これではまずい。いっそ手強く慎重な幕府を倒し、こちらの言うことを聞く従順な傀儡政権を建ててはどうだろう?

イギリスは清にそうしたように、日本を侵攻する策も検討していました。木造建築の多い日本の都市を艦砲射撃で焼き払う計画もありました。

けれども、そんなことをするより、手付かずのまま従順な貿易相手国を作った方が旨みがある。

幕末の日本は、自力で植民地化を回避できたというより、清ほど植民地化するメリットがないと判断されたことが大きいのです。

日本をうまく利用したい。そう模索するイギリスにとって、薩摩は実にうまい駒になるとこの戦争は証明したのでした。

一方で薩摩も、技術力があるイギリスが接近してくるとなれば、悪い話ではありません。

◆参預会議

京都政局で存在感を増す久光。

ここで一橋派にとって理想の政治体制が生まれます。

【参預会議】です。

◆参預会議のメンバー

徳川慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)

松平春嶽(越前藩前藩主・前政事総裁職・一橋派)

山内容堂(土佐藩前藩主・一橋派)

伊達宗城(宇和島藩前藩主・一橋派)

島津久光(薩摩藩主島津茂久の父・一橋派)

松平容保(会津藩主・京都守護職)

文久3年(1863年)には孝明天皇の意思を受け、【八月十八日の政変】で長州藩を中心とした過激な尊皇攘夷派を追い出します。

しかし、この理想的な政治体制をぶち壊したのが慶喜でした。

様々な政治問題で揉めている最中の文久4年(1864年)2月、参預会議のメンバーが集まる酒席で慶喜は、久光、春嶽、宗城を指さしてこう罵倒したのです。

「この3人は天下のバカ、極悪人だ! 将軍後見職の俺と一緒にすんじゃねーよ!」

結果、久光が激怒し、体制は崩壊しました。

◆呉越同舟の君臣、討幕のきざし

元治元年(1864年)6月15日、【禁門の変】が勃発。

御所にまで砲弾を撃ち込まれた孝明天皇の怒りは、再び長州藩へ向けられました。

同時期、長州藩士と懇意であった水戸天狗党が強引な上洛を企んで崩壊していますが、その天狗党が頼みとしていた徳川慶喜は、過酷な処断を決行。

天狗党の乱】と呼ばれ、あまりに酷い結末を聞いた大久保利通は、日記にこう記しています。

「4日に武田(耕雲斎)以下、27人を全員斬首した。全く獣のようなひどい扱いで、聞くに堪えない話だ。これぞ幕府滅亡のあらわれではないのか」

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一方、孝明天皇の怒りを制御せず、長州藩への処断にこだわる朝廷にも失望する大久保利通。

果たして久光は大久保利通の失望をどの程度把握できていたのか。

流罪から戻った西郷隆盛は、【第一次長州征討】で露骨なサボタージュ姿勢を見せます。

【第二次長州征討】では大久保利通が手綱を握り、消極的な姿勢をとり幕府を抑え込みます。

背後ではイギリスも動いていました。

幕府軍は海路を使えば効率的に長州藩を攻撃できましたが、それに待ったをかけたのです。

「戦闘において我が国の船が巻き込まれては困ります。戦闘を行う船の航行はやめていただきたい」

イギリスが海路を封鎖する形で、長州藩を援護。

かくして動かしやすい傀儡政権を立てるイギリスの計画は一歩前進したのです。

このときのことを振り返り、幕臣だった福沢諭吉は苦々しく振り返っています。

「海外勢力の力を借りてでも、なんとしても長州を叩き潰しておくべきだった」

福沢はおそらく、イギリスの介入を知っていたのでしょう。幕府も、長州も、イギリスの思惑の中で動いていたことを。

幕府はフランスの力を借りられたのですから、福沢の意見も納得できます。

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◆土佐藩と連携するもすぐに決別

このころ、別の道を模索する動きが土佐藩にはありました。

脱藩浪士である坂本龍馬中岡慎太郎の独断のように誤解されがちではあるのですが、山内容堂とその意を受けた後藤象二郎板垣退助らの意向もあります。

土佐藩の政治的なビジョンは見えにくいものがあり、現在進行形でさらなる研究が進んでいます。今後もご注目ください。

そんな土佐藩では、西洋諸国のような合議による政治思想を学びつつありました。

長州藩を袋叩きにしてどうなるというのか?

デモクラシーによる政治ができないか?

そんな動きから、まずは薩摩と長州を結ぶ【薩長同盟】が慶応2年(1866年)に結ばれます。

ただし、薩摩藩と土佐藩は齟齬が早々に生じてはいます。【薩土盟約】は慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬までしか持ち堪えていません。

薩摩藩は武力討幕へ舵を切り、そこが土佐藩と一致しなかったのです。

土佐藩は徳川慶喜と永井尚志と連携し、【大政奉還】の実現に尽くします。

◆王政復古では勝負が終わらない

なぜ土佐藩と徳川慶喜は王政復古を目指したのか?

彼らはわかっていました。朝廷には日本の政治をこなせるだけの力はない。権力を渡したところで持て余し、結局は慶喜に泣きついてくるだろうと。

大久保利通もそこは理解しています。では、いかにして出し抜くか?

◆強引な武力討幕へ

幕末の最終局面は、どう徳川幕府を終わらせるか――そこにかかってきます。
ソフトランディングか? ハードランディングか?

というと大久保利通は後者でした。

前者に力を尽くしていた者たちは多くが凶刃に斃れているため、大久保はじめ薩摩藩は坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯黒幕としてもその名を挙げられます。

実際は、会津藩・松平容保の指示によるものであり、あてはまりません。

しかし、薩摩藩が武力討幕回避を目指していた赤松小三郎を殺害したことは確定。

命じたのは大久保利通でした。

薩摩藩が隠蔽したため歴史に埋もれていた赤松ですが、近年注目度が高まっています。

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大久保利通はじめ、薩摩藩上層部が強引な武力討幕を進めたことは確実なのです。

そしてこの強引な討幕には、実は薩摩藩ですら納得できていません。戦死者も出て、財政負担も大きく、不満が鬱積してゆきます。

何より島津久光からすれば、自らの預かり知らぬところで決められたことでした。

◆なぜ武力討幕したかったのか?

なぜ、当時から下策とされた武力討幕を強引に進めたい者たちがいたのか?

維新を目指すものたちの性格に結び付けられます。

西郷隆盛以下、ともかく血の気が多い連中が揃っていた。あるいは徹底的に佐幕勢力を潰すことで、反撃の目を摘むとか、朝敵とされたことを恨む長州藩の復讐目的であるとか。

色々と挙げられますが、武器弾薬なり勝機がなければ内戦を起こすことはできません。

討幕を目指す側には勝機があり、かつ、イギリスも、日本国内で内戦を引き起こして貰いたい動機がありました。

要はカネです。

このころアメリカでは南北戦争が終結。その戦場で使用された中古武器を日本で売り捌けば、イギリスにとっては実に美味しい話でした。

金を儲け、イギリスの経済圏に組み込めば、後々、極東の牽制にも役立つ。

下手に植民地にするよりも、傀儡政権を極東に作っておくほうが安上がりでうまい。

薩摩藩の背後にこうした動きがあったことは確かです。五代友厚は、日本に武器を売り捌いていたグラバーと懇意です。

イギリスとしては横浜や江戸の被害は防ぎたかったものの、東北諸藩の被害に関心はありません。

彼らはその後、戦火で荒れ果てた東北地方を旅して回り、

「こんな寂れて遅れた人々は負けて当然である」

と、とんでもなく無礼な記録を残しました。

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大久保利通は、朝廷にも幕府にも失望していました。

どちらにも政権は渡さない。自分たちで新たな国作りをする。たとえ島津久光はじめ大勢に理解されないであろうと推し進める腹づもりでした。

政治的失脚からの復帰を果たしたい岩倉具視。傀儡政権を作りたいイギリス。

国内にも国外にも、勝ち馬に乗りたがる野心家はいますので、大久保利通は彼らと手を結びます。

そして、その計画は薄氷を踏むようにして成功したのです。

鳥羽・伏見の戦い】は、実はそこまで圧倒的な差がついていたとは言い切れません。東西両軍の装備の差も大きくはなく、幕府もフランス式最新鋭のシャスポー銃を装備していました。

徳川慶喜の情けない逃亡劇あっての大勝利といえます。

その後の【江戸城無血開城】にしても慶喜が完全に戦意を喪失していたからこそ実現していた。

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幕臣随一の切れ者である小栗忠順が考えた策を見て、討幕側はこう反応しました。

西郷隆盛「偉大なる権謀家である」

大村益次郎「実現していたら命がなかった。もしも実行されていたら我々は勝てなかった」

江藤新平「ここまでの策を立てながら実行しなかったのは、小栗が間抜けだからね」

作戦を却下された小栗は、その後、おとなしくしていたにも関わらず、西軍に冤罪を着せられ、強引に斬首されています。

近代日本への歩みを刻んだこの知られざる偉人は、わけのわからぬ強引な展開で無惨な死を遂げたのです。

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江戸城を引き渡された西軍は、中へ乗り込むと幕臣たちの神経を逆撫でするように慰霊をにぎにぎしく行いました。

この【江戸無血開城】にもイギリスの意向があります。

貿易港の横浜に近く、魅力ある市場でもある江戸を戦場にしたくない。

君主を殺してはまるでフランス革命であり、イギリスが支援する政府の始まりがそれでは困る。

そんな思惑がありました。

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東北諸藩はどうか?

松平容保は家督を喜徳に譲って隠居し、戦う意味はないと恭順しました。

が、西軍の進軍は止まらず【戊辰戦争】は続いてゆきます。

なぜここまでして大久保たちは内戦を引き起こしたかったのか。

東北諸藩にはプロイセンが近づきました。

プロイセン商人のヘンリーとエドワードのスネル兄弟は、会津藩の武器を売り捌きます。プロイセンは蝦夷地割譲まで視野に入れていました。

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