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【吉田稔麿】
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暴走と呼ぶにしては計画的 その背景にいたのが……
この事件の背後で、暴走奇兵隊士に指示を出していた――というのが吉田稔麿です。
確かに暴走と呼ぶにしては計画的な凶行です。
キレ者が糸を引いていたとしても不思議ではないでしょう。
長州藩の若者たちは気勢を上げます。
「不真面目で、攘夷をしない幕府にかわり、攘夷という大正義を行う自分たちは正しい!」
彼らが、自らの姿勢に酔っていないか? と問われたら、これは否定しがたいものがありましょう。
実際、この年、京都では、とある人物が長州藩の行動に対し激怒していました。
吉田らが忠義を尽くしていたはずの孝明天皇です。
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「大和行幸」の計画が勝手に立てられたことを契機に天皇の怒りが爆発。
「朝陽丸」の一件についても怒っていました。
確かに孝明天皇は外国人嫌いではありました。
しかし、それと同時に争いは好まぬ穏やかな性格であり、幕府と強調して歩む「公武合体」の賛成派でした。
何かと言えば幕府に刃向かいたい、長州藩の過激派や倒幕派とは気が合うわけもなかったのです。
ではなぜ、長州に勅(天皇からの命令)がくだされていたのか?
すべては三条実美ら過激派公卿による勝手な行動でした。
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孝明天皇は、こうした偽勅ラッシュに我慢の限界が訪れていました。
そんな天皇の意を受け、実行されたのが長州藩を京都から追い出す【八月十八日の政変】でした。
苦しい現実逃避と募る憎悪
自分たちが武器としてきた「勅」で、今度は京都を追われてしまった長州藩。
元治元年(1864年)、孝明天皇は追い打ちをかけるように【宸筆の勅旨】を出し、徳川家茂らに自らの意志を伝えました。
無謀な攘夷をしろと言っていない。
攘夷のどさくさに紛れて幕府を倒すとか考えるとは、こんな凶暴な連中は絶対に許せない。
こんなことを考えるのは、考えの浅い卑怯者のすることだ。
罰を受けるべきだ。
として宸筆の勅旨を出したのです。
天皇直筆の強い命令でした。
この宸筆の勅旨の下書きは薩摩藩が作りました。
ゆえに長州藩は
「ありゃ薩摩に騙されたのであって、天皇の真意じゃない」
と言い逃れをするわけですが、前後の行動を見ると、天皇の真意ど真ん中ではないでしょうか。
自分たちと天皇の思いは一致していたはずだと信じてきた長州藩士たち。
その天皇から激怒をぶつけられたことを、どうしても信じたくなかったようです。
彼らは、いわば現実逃避をしたのですね。
薩摩がイギリスと仲良くなって激怒
むろん、正面切って天皇に怒りをぶつけるわけにもいきません。
そこで彼らが持ち出したのが「君側の奸」論でした。
要は、天皇をたぶらかせる悪い連中がいる、というワケで、薩摩藩と会津藩が敵対視されたのです。
長州藩における、薩摩藩への感情は複雑です。憎むだけではなく、シンパシーも抱いていました。
文久2年(1863年)。
薩摩藩では生麦事件からの薩英戦争という、イギリスとの対立を起こしておりました。
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長州藩は、当初この知らせに喜びました。
「わしらだけじゃない、攘夷をしちょる者は他にもおるんじゃ!」
実は薩摩藩ではかなり前、島津斉彬の父である島津斉興の時点で「攘夷は無理、開国する」と決めておりました。
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生麦事件は、あくまで突発的なもので一連の事件はアクシデントなのですが……長州側としては仲間が出来たと喜び、慰問状まで送ったとか。
しかしこの後、薩摩がイギリスと手を組んだと知って、長州側は激怒します。
「攘夷をしちょると思うたそに、うわべだけじゃったたぁ! 卑怯な連中じゃ、許さん!」
よくも騙したな、というところでしょうが、薩摩としては
「わいはないをゆちょっど? 勝手に同情して、勝手に失望して、おいん知ったことじゃなか」
といったところですかね。
ともあれ、長州藩の怒りは滾るわけです。
さらに会津藩では、長州藩からの弁明を孝明天皇に取り次ごうとはしません。
「弁明を聞いて貰うことすら許さん、憎い会津め!」
会津藩側としては、孝明天皇への忠義第一で取り次がなかったのかもしれません。頑固な気質もあったかもしれません。
しかし、そんなことは長州藩には通じないわけです。
後に会津藩が朝敵認定された際、仙台藩は『なぜそれを取り消せないのか』と訝しみました。
「あのとき、会津は弁明の機会を与えなかった。今度はわしらが会津からその機会を奪うちゃる」
というのが、長州側の言い分です。
このドロドロした憎悪のスパイラルは、多くの人々の運命を暗い方向へと引きずってゆくのです。
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