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【吉田稔麿】
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「松下村塾」四天王
「松下村塾」で吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞の次に優秀で「三秀」とも称された若者でした。
もう一人、入江九一を加え「四天王」ともされます。
吉田は天保12年(1841年)、長州藩の士雇(さむらいやとい・準士)である吉田清内の長男として生まれました。
幼い頃、近所に引っ越して来た伊藤利助(のちの伊藤博文)とは幼なじみで、ともに学び、遊んだ仲です。
嘉永6年(1853年)、父のあとについて江戸に勤めた吉田は、おそるべき事態に出くわします。
黒船来航です。
数え13才の若さで黒船を目の当たりにした吉田は、このままでは国が危ういと、攘夷思想に目覚め、安政3年(1856年)に帰藩すると、吉田松陰の松下村塾へ入塾。
たちまち塾生の中でも頭角を現すのでした。
師の松陰とも良好な関係を保っていた吉田でしたが、しかし、これは長続きしません。
政治情勢に失望した松陰は、老中・間部詮勝の暗殺を計画するなどの暴走を始め、吉田も距離を置き、ついに絶縁してしまうのです。
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師の松陰が江戸に送られるとき、遠くからそっと見送るほかありません。
そしてそのときの姿が、師弟にとっては永別となるのでした。
攘夷でアピールする若者たち
師である吉田松陰の死後。
「松下村塾」出身者たちは師の遺志である攘夷を掲げ、活動に乗り出します。
吉田も、その一員として加わりました。
このあたりの経緯は、吉田の同志である久坂玄瑞の記事とあわせてご参照いただければ幸いです。
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実のところ、久坂といい吉田といい、若さあふれる彼らの行動は、島津久光が先導する薩摩藩のような老獪さに欠けておりまして。
大々的に挙兵し、上洛を果たしてアピールするような、そういうパフォーマンスが長州藩にはできません。
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【ルール違反者は、たとえ同じ藩士であっても処断する】
そんな断固たる姿勢として、周囲からは評価されていたのです。
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しかし、この成功を受け、アピールのために危険行動を取るグループが現れました。
京都で攘夷を叫びながら暗殺事件を繰り返す、武市瑞山率いる「土佐勤王党」。
そして長州藩の「松下村塾」出身者を中心とした一団です。
彼らは、外国船への砲撃というかたちで、自己アピールに走ります。
確かに胸のうちには情熱があったのでしょう。
一人一人の若者たちは、純粋な理想に燃えていたはずです。
ただし、彼らのしたことが理にかなっていたのか? 正しかったのか? 本当に日本のためになったのか?
それについては個別に考える必要があると思われます。
小倉藩からのSOS
文久3年(1863年)、小倉藩から幕府に救援要請が入りました。
「助けてください! 長州藩が、下関海峡を越えて勝手に攘夷用砲台を建設しようとしています!」
他藩の所領に出向いてまで砲台を設置するなど、明らかに度を越した行動。
一体どうした?
というと、これまた詳細は久坂玄瑞の記事にあるのですが、ともかく当時の長州藩は自らで攘夷をするだけでは飽きたらず、隣の小倉藩にまで強いようとしたのです。
そこまでエスカレートした理由は次の通りです。
薩摩藩や、「京都守護職」に就任した会津藩。
彼らの台頭に対して、長州藩は焦りを感じておりました。
挽回するためには、より先鋭化した攘夷が必要だということで過激化したのです。
しかも、朝廷に攘夷活動を報告したところ「褒勅」(天皇直々のお褒めの言葉)が出されたのですから、ますます拍車がかかります。
幕府は、こうした長州藩の行動を異常なことと認識し、詰問使・中根市之丞を乗せた蒸気船「朝陽丸」にを乗せて長州へ派遣しました。
長州藩としても、幕府との揉め事は避けたいところ。
将軍の親書を受け取ろうとしたのですが……。
「なんで、攘夷を真面目にやらん幕府の言うことを聞かにゃあならんのじゃ!」
一部の過激な奇兵隊士がそう激怒。
「ええことを思いついた! 攘夷をやらん幕府にかわってあの船を乗っ取り、わしらで使うちゃろう」
思うが早いが奇兵隊士200名は、なんと「朝陽丸」を占拠してしまったのです。
そのころ幕府の使者は、長州藩から丁寧なおもてなしを受けていました。
そこへ、占拠の報が入ったのですからたまりません。
藩の上層部は焦って奇兵隊を説得しようとします。
若い連中は聞く耳を持たないどころか、ますます暴れて、手が付けられない状況に陥ってしまいました。
ついに奇兵隊士は、幕府の使者を襲撃し暗殺。
幕府の使者である中根は襲撃から逃れたものの、直後に追ってきた刺客に殺されてしまいました。
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