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【永井尚志】
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斉昭の台頭
黒船来航という未曾有の国難に、日本人は団結して立ち向かった――そう思いたいところですが、実際は違います。
「幕政の混乱は、全て景山公(徳川斉昭)が先頭に立っていた。これぞまさしく獅子心中の毒虫である」
幕臣であった大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)は苦々しく振り返っています。
尚志はまさしくこの混乱に巻き込まれました。
斉昭が、まず狙いを定めたのが阿部正弘です。
阿部の「提灯持ち」と陰口を叩かれるほど取り入り、幕政に乗り込んできました。
そして幕政を震撼させるようなことを主張し始めます。
尊王攘夷を掲げ、ことあるごとに「ええい、異人を斬ってしまえ!」と暴れ出すのです。
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外交、疫病、天災、不況……厳しい状況が続く中、それを悪化させる斉昭に幕政は疲弊。
これにはもう耐えられない――と、井伊直弼が大老となり、人事において大鉈をふるいました。
13代・徳川家定のあと、将軍に斉昭の子・一橋慶喜(後に徳川慶喜)を推していた者を処断したのです。
俗に言う【安政の大獄】ですね。
安政の大獄が、倒幕の芽をつむ暴挙と誤解されているのは、処刑者の中に吉田松陰が含まれているのが大きいのでしょう。
松下村塾の面々がそう喧伝したプロパガンダが未だに通じておりますが、松陰は尋問中に老中・間部詮勝暗殺計画を突如自白したがゆえに処刑されております。
安政の大獄の本質ではありません。
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この政変に巻き込まれ、一橋派とみなされた尚志は、敬愛する岩瀬忠震ともども失脚しました。
永井尚志という才人は、この後も徳川斉昭・慶喜父子によって人生が左右されてゆくのですが、その端緒ともいえる事件でした。
朔平門外の変
尚志は雌伏のときを過ごします。
熱烈な攘夷を唱える斉昭の同類とみなされたからこその不遇なのに、世間ではこうささやかれます。
「永井は夷狄と交渉した邪智奸佞の者だ。ゆえに天罰が当たったのである」
誤解ゆえに悪評がふりまかれる宿命は、このときからつきまとっていたのでした。
耐え忍ぶ尚志をよそに、世間は流転してゆきます。
万延元年(1860年)に【桜田門外の変】で井伊直弼は討たれ、その半年後に斉昭が急死。
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外交交渉で行動を共にし、漢詩贈呈をしあっていた岩瀬忠震も文久元年(1861年)に世を去るのでした。
文久2年(1862年)頃になると、一橋派への処分も徐々にゆるんできます。
松平春嶽、そして一橋慶喜が政局へ復帰。
京都町奉行に任命され、表舞台に戻ってきました。
このころ、京都はとてつもない状態でした。
一橋派の有力者であった島津斉彬は世を去り、弟・島津久光が藩主父(国父)として京都へ。
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政治力抜群の大久保利通や西郷隆盛らが背後に控え、権力を握ろうとする。
しかも街には尊王攘夷を掲げ、テロリズムに飢えた志士たちがうろつく有様です。
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そしてこの先、永井尚志の人生は、慶喜のために尽くすものとなります。
文久3年5月20日(1863年7月5日)に【朔平門外の変】――そう呼ばれる事件があります。尊王攘夷をとなえる公卿・姉小路公知が暗殺されたのです。
京都で攘夷テロは日常茶飯事と化しておりましたが、こと大物の公卿殺害となると只事ではありません。
容疑者とされたのは、薩摩藩士・田中新兵衛でした。
田中も【幕末四大人斬り】の一人でありますが、他の者(岡田以蔵・河上彦斎・中村半次郎=桐野利秋)と比較するとそこまで犠牲者の数は多くはない。
このことからも田中による公卿殺害事件のインパクトがわかるでしょう。
そして、この取り調べにあたったのが他ならぬ永井尚志なのですが……。
取調べ中に田中が自害してしまい、真相は闇の中に葬られてしまいました。
もともと開国派として評判が悪かった尚志は、不運にも犯人自害の防止失敗を糾弾され、閉門処分となってしまうのです。
しかし幸か不幸か、ほどなく尚志は政務復帰を認められます。
任ぜられたのは参与会議大目付。そしてこの参与会議が程なくして行き詰まるのです。
一会桑政権
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慶喜はそれが気に入らなかったようで、感情的に衝突。
ついには宴席で酒に酔って久光を罵倒し、参与会議は瓦解してしまうのです。
巻き返しをはかる慶喜は久光排除を徹底すべく、【一会桑政権】を形成します。
病弱な京都守護職・松平容保は、久光のような政治力は乏しいものの、誰しも褒め称えるうるわしい性質と生真面目さがあります。
それゆえ孝明天皇の信任を勝ち得ていました。この親愛に乗っかろうと慶喜は画策したのです。
しかし、そのことが己と江戸幕府の首を絞めることとなるのですが……それは先の話。
【八月十八日の政変】
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【池田屋事件】
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【禁門の変】
と長州排除の動乱が続く中で、慶喜は勝利をおさめます。
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
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そしてこのあと、ターニングポイントが訪れるのでした。
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