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【渋沢千代】
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妻妾同居の渋沢家
幕末の動乱を切り抜けた栄一とと千代たちは、新しい世を迎えました。
困窮する幕臣もいる中、栄一は安定した暮らしを迎えます。駿府に迎えられた千代と子どもたちは穏やかな日を過ごしたのでしょう。
しかし、それも栄一が大蔵省に出仕するまでのこと。
夫が大阪へ向かうとなるとまたも千代は見送るしかありません。
それから時は流れて明治11年(1878年)――栄一と千代夫妻は東京に新居を構えたました。
この家に別の女性もやってきました。
妾のくにです。
大阪に滞在中の栄一は、現地でくにを妾とし、子を産ませ、東京に戻る際に連れてきたのでした。
つまり、妻妾同居となったのです。
これは流石に明治時代であっても、異常な状況でした。妾がいることはあるにせよ、別居とする、つまり妾宅(しょうたく)に通うことが一般的であったのです。
妻妾同居の例がないわけでもありません。
栄一が仕え、敬愛していた徳川慶喜も、静岡で妻妾同居の生活を送っています。
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つまり、近代的な家庭観からすれば異常であっても、封建的な後宮システム、つまりは大奥のようなものとすれば異常ではないということになります。
ただ、それは将軍であった慶喜ならば通じるにせよ、渋沢栄一に適用するには無理があるとは思えます。
自宅に小さな大奥を持つまで出世したとするのであれば、これぞまさしく夢の体現者と言えなくもありません。
その様を大河ドラマで描いたとして、現代の視聴者が納得するかどうかは別の話ですが。
良妻賢母を失って
明治15年(1882年)7月14日、千代は世を去りました。
当時、コレラが流行しつつありました。渋沢家は感染を避けるため、飛鳥山の別荘に移ります。
しかし千代は13日に発病し、そのまま意識を失い、一流の医師たちが賢明の看病をしたにもかかわらず、二人の娘と一人の息子を残し、息を引き取ったのです。
享年41。
伝染病であるため、我が子ですら息を引き取る母を看取ることもできず、即座に火葬にされるという、悲しい別れでした。
それでも棺におさめられたその顔は、神々しいほど美しかったと回想されています。
厳しく、強気で、我が子や周囲のものたちにも畏れられていたという千代。
夫の栄一が飛翔できたのも、千代あってのことでした。
しばらくは呆然とし、何も手につかなかった栄一。それほどまでに千代に愛があったのでしょう。
とはいえ、いつまでも亡妻への愛に浸っているわけにはいかなかったのでしょう。
明治16年(1883年)には縁談が持ち上がり、その2年後には妊娠中の伊藤兼子と正式に再婚しています(兼子については以下に別の詳細記事がございます)。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon)
芳賀登『幕末志士の世界(江戸時代選書)』(→amazon)
他