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【板垣退助】
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板垣死すとも自由は死せず、ただ消えていった
日本各地に数多く自由民権運動活動家は多数いたはずなのに、突出して板垣退助が有名なのはなぜか?
明治15年(1882年)、岐阜での遊説中に襲われて刺され、こう言い残したという伝説も大きいのでしょう。
「板垣死すとも自由は死せず」
本人が咄嗟に叫んだのか、それとも自由党幹部が語った言葉が誤認されたのか、真相は不明。
ともかく板垣は欧州を歴訪すると、自由党の限界を痛感するのでした。
自由という概念はさておき、自由民権運動はフェードアウトしてゆきます。
明治17年(1884年)に協議の上、自由党は解散。
運動は下火となり、明治22年(1889年)制定の【大日本帝国憲法】にせよ、明治23年(1890年)制定の【帝国議会】にせよ、自由党が求めたものとは異なる形で制定されました。
理想とは異なる近代が到来し、運動は薄れてゆくのです。
この後も別の党を結成し、国会開設や言論の自由、条約改正といった政策を献策。
政治の理想を追い続けました。
明治28年(1895年)には伊藤博文内閣で内務大臣に就き、さらに明治31年(1898年)にも憲政党内閣で再度内務大臣を務めます。
その後は政治活動から身をひき、社会問題に取り組みました。
そして大正8年(1919年)、享年83で大往生を遂げたのでした。
板垣だけを知っても自由民権運動はわからない
自由民権運動において、この板垣だけ突出した印象というのは、日本近代史理解における問題点かもしれません。
自由民権運動が消えていった後、日本の近代はどう展開したのか?
時計の針を進めていくと、戦争反対を口にしただけで憲兵に拷問されかねない、そんなアジア・太平洋戦争中の弾圧に行き着きます。
明治38年(1905年)――【日露戦争】に勝利したにも関わらず、【ポーツマス条約】の内容はお粗末なものと民衆には感じられました。
これを不服とした群衆が日比谷に集い、大騒動となります(【日比谷焼き討ち事件】)。
この事件の現場には、扇動して回る河野広中がいました。三春藩出身で、福島県の自由党員であり、三島通庸の弾圧に苦しめられたこともある人物です。
【桜田門外の変】以来、日本では暴力で世直しをする気風が根づいてしまっていたのです。
それは明治維新後も続き、大久保利通を筆頭に多数の政治家が凶刃に斃れています。
言論の自由と、民衆の暴力――この結びつきを見せた【日比谷焼き討ち事件】は、政府の方針転換の契機となりました。
明治の後は華やかな【大正デモクラシー】の時代とされます。
それは歴史の一面ではありますが、同時に言論への弾圧前夜でもありました。
自由民権運動の次へ時代は進んでゆきます。そのあとの思想史は、何らかの理由で追いにくくなります。
自由民権運動は、天皇制に反発する派もありました。
【ロシア革命】に結実した共産主義は、日本にも入ってきます。
平塚らいてう、市川房枝、山川菊栄はじめ、フェミニストもさまざまな言論を展開。
それを上書きするように、戦争へ突き進み流される思想弾圧が進んでゆくのです。
板垣の監修する『自由党史』にはこうあります。
「夫の会津が天下の雄藩を以て称せらるゝに拘らず、其亡ぶるに方って国に殉ずる者、僅かに五千の士族に過ぎずして、農商工の庶民は皆な荷担して逃避せし状を目撃し、深く感ずる所あり、憂国の至情自から禁ずる能はず、因て以為らく、会津は天下屈指の雄藩なり、若し上下心を一にし、戮力以て藩国に尽さば、僅かに五千未満の我が官兵豊容易く之を降すを得んや。而かも斯の如く庶民難を避けて遁散し、毫も累世の君恩に酬ゆるの概なく、君国の滅亡を見て風馬牛の感を為す所以のものは、果して何の故ぞ。蓋し上下隔離、互に其楽を倶にせざるが為なり。」
会津は天下の雄藩であるにも関わらず、滅ぶにあたって国に殉ずる者、たった五千人の士族に過ぎなかった。
農工商の庶民は逃げ出す様を目撃し、深く思うところがあった。
憂国の情が湧いた。会津は雄藩だ。もし上下心を一つにして藩に尽くせば、わずか五千に満たぬ官軍になぞ降伏せずに済んだのではないか?
ましてや庶民がああも逃げ散り、君恩に報いることなく、滅亡を見て逃げ出すとは一体どういうことか?
どうして上下共に団結できないのか?
こう感慨を抱き、富国強兵を為そうとしたと彼は語り、自由民権運動を始めたと彼は振り返っているのです。
偉人の言葉のため無批判に信じられてきましたが、事実誤認や偏見は随所にあります。
・現在は士農工商という区分そのものに見直しが進んでいます
→明治政府は徳川支配を貶めたいあまり、事実誤認ありきの歴史修正をしたとされており、注意が必要です。
・会津戦争では武士以外の農兵も従軍している
→進んでのことではないにせよ、従軍した彼らをまるでいなかったように扱うことは不正確です。
・会津藩だけでもない
→日本各地の藩で同様の傾向はあります。
そして何より、この見解は会津藩よりも悲惨な境遇に陥った藩を見通しています。
水戸藩です。
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天狗党の残党が、維新前後に内乱を繰り広げた水戸藩は、結果的に人材枯渇に陥りました。
殿様のご恩に報いるために戦えばどうにかなるというのは、別段そんなことはありません。
薩長が勝利に貢献した背景には、イギリスの援助もあります。
精神論とは関係はないのです。
日本は皮肉にも、板垣がめざした活発な言論活動は捨て去ったものの、国のために君臣一丸となって命を捨てる忠誠心は身につけました。
会津戦争で散った白虎隊は、愛国教育の題材とされた。
一兵卒のみならず民衆までもが「武士道」を身につけた結果が、【アジア・太平洋戦争】末期の集団自決へとつながってゆくのです。
板垣退助の名言は有名なのに、そのあとの日本における言論や思想がピンとこないのはなぜなのか。
そこには近代史ならではの課題が横たわっているからでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
稲田雅洋『自由民権運動の系譜』(→amazon)
石井孝『明治維新と自由民権』(→amazon)
加藤陽子『戦争の日本近現代』(→amazon)
橋川文三『幕末明治人物誌』(→amazon)
平尾道雄『吉田東洋』(→amazon)
他