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【徳川斉昭】
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異人と国交なんてトンデモナイ! 焼き払え!
幸い(?)斉昭は身分の低い藩士にも人気があったため、復権を願う人も多く、謹慎は数年で解除されています。
斉昭を支持した藤田東湖や武田耕雲斎らがドラマにも登場していましたね。
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それからさらに四年ほど経ってから、斉昭がまた政治の表舞台に大きく物申すタイミングがやって来ました。
黒船来航です。
斉昭は半ば脅迫じみた交渉をしてくるペリーに対し、「異人と国交を持つなどとんでもない! 焼き払うべきです!!」と主張し、実際に大量の大砲と軍艦を作って幕府に献上しています。
当然のことながら、斉昭は開国を進めようとする幕閣と激しく対立しました。
この頃、開国派の代表格は井伊直弼です。
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さらに、将軍継嗣問題でも斉昭と直弼は対立しました。
この辺は大河ドラマ『西郷どん』でも割と大きく取り上げられていたので、ご記憶の方も多そうですね。
当時の将軍は十三代・徳川家定。
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十二代・徳川家慶の子供の中で唯一成人した人で、薩摩から篤姫を継室に迎える将軍ですが、家定も病弱だったため子供ができるかどうか危ぶまれており、早いうちから「十四代将軍をどうするか」という問題が起きていました。
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実は、家慶は「病弱な家定に将軍という重責を負わせるよりは、健康な他の者に継がせるべきではないだろうか」と言っていたこともあります。
そのとき候補に持ち上がったのが、斉昭の息子・徳川慶喜でした。
直弼らは、慶喜と張り合える血筋の家茂を担ぎあげる
慶喜は既に御三卿の一つ・一橋徳川家の養子に入っていました。
そもそも御三卿は「宗家もしくは御三家に跡継ぎがいなかったときに養子に行くため」に作られた家なので、再度養子に行くことには問題がなかったのです。
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しかし、家慶の代では「直系のお世継ぎがいらっしゃるのに、わざわざ遠い血筋の方を将軍にするのはおかしいではありませんか」と反対されたため、家定が将軍になったのでした。
斉昭からすれば「ワシの息子のほうがデキもいいし健康なのに!」(※イメージです)と、モンスターペアレント的なことを考えたくなるのも無理のない話です。
ここで慶喜が将軍になってしまえば、斉昭が大御所のような権勢を持つことは火を見るより明らかでした。
直弼らからすれば絶対に回避したいところ。そんなわけで、直弼らは慶喜と張り合えるだけの血筋の人物を担ぎ上げます。それが……。
それが、最終的に十四代将軍になった徳川家茂です。
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家茂は家定の従弟でしたので、家康まで血筋を遡らなければ宗家とのつながりがない慶喜よりもはるかに血筋が近く、理由付けとしては十分でした。
さらにここでは、大奥の動きも大きく影響します。というのも、斉昭は大奥の女性たちに非常に嫌われており、彼女らが影響を及ぼす幕閣や大名たちにも自然と嫌われたといわれているからです。
その原因は、主に斉昭の女性問題でした。
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