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【徳川斉昭】
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女好きの斉昭 禁忌に触れ大奥に嫌われる
最たるものは、斉昭の兄嫁付きの女中(しかも大奥では「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」というお偉いさんだった)・唐橋という女性に手を付けたことです。
上臈御年寄は生涯に異性関係を持たない決まりで、唐橋はかつて家斉からの求愛も謝辞したほど、厳格に掟を守っていました。
大奥から出た後はその決まりに従う必要はなかったはずですが、唐橋は律儀に貞操を守り続けていたのです。
そのプライドを斉昭が踏みにじったのですから、大奥からのウケが悪くなるのも無理はありません。
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また、斉昭は正室との仲が良く、子供にも恵まれているのに女好きが過ぎました。ほぼ毎年子供が生まれているくらいですから、余程ですよね。
ちなみに、末っ子の二十二男&十五女は亡くなる二年前、58歳のときに生まれています。
しかも同じ年に生まれているということは「同時期に複数の女性に手を付けるのは、斉昭にとって当たり前だった」&「跡継ぎの心配がなくなっても、子作りに熱心だった」ということになります。
つまり、正室との関係が悪いことによる腹いせ混じりの漁色ではなく、単純に夜も元気すぎたからということになるわけで……そりゃ、大奥からすれば好意は持てません。
しかも自分はぽんぽこ子供を作る=金を使うくせに、大奥には「今は幕府が苦しい時なので節約しろ」と言ってくるのですから、ダブルスタンダードにも程がありました。
自ら敵を増やしているも同然です。
安政の大獄で永蟄居 桜田門外の変の年に死亡
篤姫の義父・島津斉彬など、他にも慶喜を推す大名は複数いました。
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が、業を煮やした斉昭らが直弼に直談判を図ったことで、かえって追いつめられてしまいました。
結局、十四代将軍の座は家茂のものになります。
さらに、孝明天皇から水戸藩に直接「幕府を何とかせい」という命令【戊午の密勅】が下ったことで、直弼は「もう斉昭公を放っておけない!」と考え、【安政の大獄】で攘夷派とともに慶喜推進派や水戸藩へ処分を下しました。
学校の授業で習う安政の大獄は吉田松陰らの印象が強く、思想的な弾圧とされたりもしますが、それはあくまで誤解であって、本筋は井伊直弼らによる政争の結果だったんですね。
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首魁である斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、その後は政治に関わることができないまま、【桜田門外の変】と同じ年に心筋梗塞で世を去っています。
タイミングがデキすぎているので、「桜田門外の変の犯人は水戸の浪士(と薩摩藩士)」であることから「斉昭は病死ではなく、彦根藩士に復讐されたんだ」なんて噂も流れたとか。
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斉昭は直弼とは対立しても、彦根名物・牛肉の味噌漬けは好きだったそうなので、たぶん公私を完全に分けて考える人だったんでしょうね。
それが悪い方向に働いて、ダブルスタンダードになりやすかったのかもしれません。
何というか……もうちょっと隠すべきところを隠せば、敵が減ったんじゃないかなという気がします。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
徳川斉昭/Wikipedia