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【渋沢と伊藤はテロ仲間】
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廃帝の噂がテロにつながる
伊藤俊輔は「斬奸状」のとある部分に着目。
“安藤信正が国学者に廃帝の先例を調べさせた”という記述を見つけます。
これが良くなかった。
帝を廃位させるつもりか!と、頭に血がのぼったのか。
あるいは国学者であれば幕臣と違ってガードが甘いと思ったのか。
伊藤は、こうした国学者たちも【暗殺リスト】に載せ、行動に移してしまったのです。
塙次郎(忠宝):文久2年12月22日、江戸三番町自宅にて暗殺
宇野東桜(八郎):文久3年1月13日、江戸新橋にて暗殺
鈴木重胤:文久3年8月15日、江戸小梅自宅にて暗殺、死後冤罪と判明し、正五位追贈
中村敬宇(正直):未遂
殺すと思ったら殺す――それが陽明学や水戸学に傾倒した幕末志士たちの心意気でした。
といっても伊藤がすべて暗殺したわけではありません。
山尾庸造と共に、塙(とその場に居合わせた加藤一周)を殺しました。
宇野東桜の殺害は高杉晋作が命じています。
宇野は長州藩上屋敷・有尾館に連行され、刀を取り上げられた上で殺されたのです。
中原邦平が明治42年(1909年)に記した『伊藤公実録』によれば、伊藤は殺害をこう振り返っています。
「(宇野は)吾輩が殺したという訳でもないが、皆がグズグズしているから、ひとつやってやろうと思って、短刀を彼の喉に突き突けようとした。
ところが遠藤多一が短刀を手にした吾輩の手をとって、すぐに突っ込んでしまった。
そうすると白井小助めが刀を抜いて、横腹をズブリと刺して殺したのだ」
「遠藤多一が吾輩の手を……」と言い訳していますが、つまりは伊藤の手で殺しているということですよね。
宇野の遺骸は薦に包まれ、伊藤ら3~4名で屋敷の近くに捨てました。
確たる証拠もない暗殺だった
捕縛、暗殺、遺体遺棄。
この事件で暗澹とした気持ちにさせられるのが、そもそも「廃帝の記述」がテキトーだったと思われるところです。
同じ罪状で殺害された鈴木重胤は、冤罪であったため、正五位を追贈されています。
文久3年(1863年)8月――中村敬于正直の家に、天狗党の薄井龍之と小林捨松が踏み込みました。
このとき母親が我が子を庇い、こう言い返します。
「その罪には証拠はおありか?」
「……いや……」
「もし証拠が確かならば、この母がこの息子を成敗します! ただの風説ならば今一度お調べください!」
「それもそうかも……」
襲撃者はハタと立ち止まり、中村家を後に。
暗殺を命じた藤田小四郎に薄井がこの一件を報告すると、藤田は笑ってこう返したのです。
「天誅をくだすのに理非を問われ迷うとは情けない。それでは志士ではないぞ」
要は、証拠なんて知らんがな。さっさとやれよ、というところでしょう。
『青天を衝け』では大きな志を抱いているかのように描かれた藤田小四郎。
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実際は、軽いノリで暗殺をしていて、気が重くなるばかり。
殺害された学者たちがあまりに不憫です。
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