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【藤田東湖】
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天狗党を率いた藤田の息子はじめ400名もの大惨殺
藤田は、水戸学の重鎮として幕末に活躍した錚々たる面々に影響を与えています。
西郷隆盛も、藤田を尊敬しており、他にも次のようなメンツが挙げられます。
・吉田松陰
・木戸孝允
・佐久間象山
・横井小楠
・吉田東洋
・橋本左内
・梁川星巌
・山内容堂
・松平春嶽
いずれも名だたる人物ばかり。
朝廷とのつながりもある水戸藩が、黒船来航以来の幕末動乱初期において、一歩リードできたのもうなずけますね。
しかし、薩摩藩と違い、彼らは肝心なところで足並みが乱れます。
斉昭・藤田の時代で既に藩内が割れていましたが、それが最悪の形で噴き出したのです。
急進的な尊王攘夷派である水戸天狗党は、保守派への巻き返しをはかるため、元治元年(1864年)に挙兵。
天狗党を率いていたのは、藤田の四男である小四郎でした。
天狗党は諸生党相手に敗れ、小次郎は元治2年(1865年)に斬首。享年24のことです。
しかしこのとき、天狗党を処刑した諸生党は、本人のみならずその家族まで処刑し尽くすのですから厄介であります。
処刑された中には、なぜ殺されるのか理解できない幼児も含まれていました。
その数、実に400名にも及ぶほど。
【安政の大獄】による処刑者が8名であったことを考えると、おそろしい数字です。
その後、一転して天狗党が巻き返すと、今度は諸生党を徹底して殺戮する……そんな復讐のスパイラルに向かっていきます。
もはや高邁な思想も、世直しという意識もありません。
かくして時代が明治維新へ向かおうとする中、水戸藩の人材は枯渇しきっておりました。
維新への道のりでは先陣を切っていたにも関わらず、「薩長土肥」の中に入れなかったのです。
どころか、明治2年(1869年)に新政府が停戦を命じるまで、水戸藩は藩内で争い、血を流し続けおりました。
もしも藤田が生きていればここまでこじれなかったのかもしれません……。
冷静に考えたい、尊皇攘夷思想とは?
確かに水戸学や藤田東湖の思想は、多くの人々に影響を与えました。
しかし、それは、決して良い影響だけではなかったでしょう。
幕府の政治を真っ二つに割り、「安政の大獄」と「桜田門外の変」を招いた将軍継嗣問題は、一橋派の重鎮であった斉昭があそこまで周囲から反発されていなければ、起こらなかったかもしれません。
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その後に藩を真っ二つに割った流血事件についても、冷静に考えてみる必要があるでしょう。
思い出してもみてください。
大津浜にイギリス人が上陸した時、藤田幽谷一門は、まずイギリス人を斬殺しようとしていました。
彼らの思想の根には、反対する者を斬り捨てるという選択肢があったわけです。
いくら理想を掲げてみても、背景にある暴力志向は拭えません。
実際、攘夷を掲げたテロリズムは京都で多発しました。その思想が持つ暗黒面は、決して無視できないはずです。
そう、たとえ西郷隆盛ら維新の英傑が信奉していた思想だとしても、黒い部分があったのです。
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ここで再度、本稿冒頭の問いを考えてみたいと思います。
水戸藩と薩摩藩、一体どこで差がついたのか?
宝島事件と大津浜事件からスタートして、明治維新をゴールとしたその道のりにおいて。
水戸だけでなく薩摩でも同じく内部争いはありながら、最終的に薩摩は藩士の多くが結束し、薩長土肥という新政府に落ち着きました(その結束が良からぬ方向へ進み、西南戦争が引き起こされるわけですが……)。
歴史に学ぶ教訓とは、こうした違いを考察するところにも潜んでいるのですよね。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)