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【藤田東湖】
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斉昭の右腕として藩政改革
文政10年(1827年)。
藤田は家督を相続し、進物番200石を得ました。
そしてその2年後の文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、同門の会沢正志斎とともに徳川斉昭を支持。
斉昭派として様々な策を用いて、藩主にすることに成功します。
以来、斉昭は藤田を右腕として重用し、水戸では理想の藩を目指して藩政改革が始まります。
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藤田の思想に染まりきった斉昭は、急進的な手腕を発揮。
以下のような改革を次々に打ち出していきました。
・貧民救済
・質素倹約の実行
・藩校「弘道館」開校
・学問振興
・廃寺
上から見ていくと『悪くないんでは……?』と思われるかもしれませんが、ラストの「廃寺」というのが曲者です。
寺を破壊し、仏僧を路頭に迷わせてしまうという過激なものです。
明治の黒歴史ともいえる【廃仏毀釈】の元となるような政策でした。
この政策に、結城朝道らの保守派が反発。
後に水戸藩を真っ二つに割った惨劇への道筋が、つけられてしまったとも言えました。
攘夷ゴリゴリ、斉昭、敵を作りすぎ
斉昭の過激な攘夷思想や、日頃の言動は、藩内外に多くの敵を作りました。
また、江戸の大奥からは、セクハラ&パワハラ気質がひどく嫌われていました。
さすがにこれには、優秀かつ調整力の高さで知られる老中・阿部正弘も手を焼く始末。
ついに斉昭は弘化元年(1844年)、譴責(けんせき・懲戒処分のこと)の上、隠居を命じられてしまいます。
ここでおとなしくしていれば、よかったのですが……。
嘉永6年(1853年)、神奈川県の浦賀に黒船がやってきました。
こうなると、水戸藩の重鎮である斉昭を無視して政治をやるわけにもいきません。
斉昭は海防参与に任じられ、藤田も海岸防禦御用掛に任じられます。
ウキウキしながら久々に江戸城にやってきた斉昭は、ノリノリでこう提案します。
「交渉すると見せかけて、白刃一閃してまず敵の将を斬る。そして黒船に奇襲を仕掛けて乗っ取ってしまえばいい。そうすれば黒船四隻も手には入って一石二鳥! 名案ではないか!」
ドヤ顔でこんなことを言われた阿部正弘の心中を想像するに、辛いとしかいいようがなく……。
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さすがに辟易したとは思いますが、そこは温厚な阿部です。
やんわりと断ります。
「いえ、もう大統領からの親書は受け取るって決めましたので。今朝には使者も派遣して、その旨は伝えておりまして。白刃一閃、またまだご冗談を……」
阿部は黒船来航をきっかけにして、広く人材を募集し、その中には、あの勝海舟もおりました。
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しかし、これからいよいよ時代が動こうという安政2年(1855年)。
大地震で倒壊した建物から母を救おうとして、藤田東湖は圧死してしまいます。
享年50。
そして悲劇はこれで終わらず、むしろ過激化していくのでした。
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