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【井伊直弼】
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彦根藩主・井伊直弼
嘉永3年(1850年)、直亮が国元で死去。
これを受け、直弼は井伊家第13代35万石の藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)を称しました。
直弼は養父・直亮の遺志であるとして、領民に15万両の大金を分配し、翌年近江に入ると、藩政改革に着手しました。
直弼の内政手段は優れたものがあり、名君と呼ばれるにふさわしいものがありました。
藩主として人材登用した中には、長野主膳も含まれており、彼も実務能力の高い人物。そして、それゆえ後年恨みを買うことにもなるのでした……。
黒船来航、直弼VS斉昭
嘉永6年(1853年)、黒船来航というXデーが訪れました。
しかもタイミング悪く、将軍であった徳川家慶が死去、幕府は大変な状態に陥ります。
徳川家慶12代将軍は本当に無気力政治だった?幕府の崩壊は既に始まっていた?
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そしてその翌年の安政元年(1854年)、ペリーが再度来港します。
立て続けに舞い込んでくる幕府への重圧。
江戸城西湖之間(さいこのま)では、ペリーへの対応をめぐり、激論が交わされました。
「異人の船なぞ、打ち払ってしまえばよい!」
そう強硬な攘夷論を主張したのが、水戸藩主・徳川斉昭です。
これに対して、直弼と佐倉藩主・堀田正睦らとは大反対します。
「異国船を打ち払うなぞ、もはやできません。ここは穏便に和平の道を探るべきです!」
両者は真っ向から対立。
それまで直弼と斉昭は、良好な関係を築いていました。
しかし、このときをキッカケに両者の関係は破綻。この対立が、幕末の政局を悪い方向に動かしてしまいます。
問題山積みの政局
黒船がらみの外交だけでも四苦八苦なのに、当時の幕府にはそれ以外の様々な問題が重なっていました。
ザッと挙げますと……。
さらに悪いことは重なるもので、安政4年(1857年)、老中首座で調整役だった阿部正弘が若くして急死してしまうのです。
後任者の井伊直弼と堀田正睦も、決して無能な人物ではありません。むしろ優秀でなければ幕府の中枢には引き揚げられません。
ただ両者には、阿部のような柔軟さがなかったのです。
無謀な攘夷をせよ!せよ!とけしかけてくる水戸斉昭を即座に幕政から追放。
この状況に堀田への怒りを滾らせた斉昭は、この後、政治をさらなる混乱へと導いていくことになるのです。
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