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【井伊直弼】
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井伊直弼の政治構想
幕末ドラマにありがちな井伊直弼像とは?
険悪で強引な態度だったり、あるいは「井伊の赤鬼」というアダ名に相応しいコワモテのおじさんでしょう。
とにかく、もう【安政の大獄】を引き起こした悪いヤツ!そんな印象ばかりが先に立ちます。
彼が何を考え、どうしてあのような行動をとったのか。
そこまで描かれることはありませんし、学校の授業で習うこともないでしょう。
僭越ながら、この段階での彼の考えを整理させていただきます。
◆朝廷を軽んじたわけではない
長野主膳から国学を学んだ井伊直弼は、決して朝廷を軽んじていたわけではありません。
むしろ「皇国」という概念を用いています。
天皇を中心とした日本の自立を重視していたのです
◆公武合体の起点
日米和親条約に関しては、関白・九条尚忠に働きかけ、幕府支持を認めさせていました。
直弼は幕府と朝廷が協力して国難に当たることを第一目標としていたのです。
和宮降嫁も、直弼が構想として抱いていたものです。
この「公武合体政策」は、直弼の死後、多くの支持者を得ます。孝明天皇、久邇宮朝彦親王、島津久光、山内容堂、松平容保等)
◆消極的な南紀派であった
将軍継嗣問題においては、堀田と直弼は南紀派でした。
ただし、消去法で「彼しかいないだろう」という程度。
将軍継嗣問題の本質はこのようなもので、南紀派は積極的に推すというよりも「さすがに一橋家だけはない」という「アンチ一橋派」であったようなものです。
(徳川慶喜の父である)徳川斉昭にもっと人望があれば、逆に問題行動が少なければ……と思わなくもありません
◆外交政策は落としどころを探っており、現実的
直弼の外国政策は、対外的な落としどころをうまく探ったものでした。
日本の文化や天皇を中心とした国柄を重視し、諸外国に日本の自立的外交を認めさせつつ、開港するというもの。
外国への屈服ではなく、あくまでも自立を保つというところはゆずれない点でした
悪くないんです。
現実的で、ちゃんとした落としどころを探っているわけです。
ですので
【朝廷を無視して、屈辱的な開国をした奸臣!】
そんな風に直弼を叩く向きがあるとすれば、いささか可哀想だなぁという感じです。
「日米和親条約」も、アメリカ代表のハリス側がゴリ推しして不平等条約を押しつけた、そんな印象があります。
実はそこまで悪くはありませんし、ハリスと幕府はきっちりと交渉をしています。
互いに相手の意見を吟味し、落としどころを探った末の結果でした。
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確かにアメリカの交渉は、武力をチラつかせつつ迫る砲艦外交という側面はあります。
しかし、実際には日米間できちんとした交渉が行われております。一方的な不平等条約ではなく、互いを尊重している面もあるということは考えなければいけません。
幕府と交渉した諸外国が態度を硬化させていったのは、むしろ攘夷テロ事件が続発するようになってから。
詳細は後述しますが、肝心の朝廷の本音も「アメリカとの条約内容なんて、どうでもええわ」だったと思います。
孝明天皇をはじめとして、朝廷の外国嫌いは、度を超えてました。
「異人は嫌い、犬猫と同じ、あいつらの意見なんて絶対に受け入れられない」
そんな強烈なアレルギーの持ち主なのです。
異人と交渉しただけでもゾッとする、ありえへん、という状態でした。
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結局、江戸から京都へ向かった堀田による調停工作が失敗に終わると、直弼は勅許を得ずに条約を結んでしまいます。
これについても、注意が必要です。
兵法書として知られる『孫子』に「拙速は巧遅に勝る」という言葉があります。じっくりと丁寧に考え実行に移すよりも、多少荒っぽくとも手早く済ませたほうがよい、という意味です。
直弼の姿勢には、この言葉に通じるものがありました。
朝廷を疎かにするのではなく、先に条約を締結させてから朝廷と協調して歩むことを目指したのです。
ザンネンながら、朝廷との交渉に失敗した堀田は、老中の座を追われてしまいました。
が、直弼にとっては一時的なものであり、あとで堀田を復帰させるつもりでした。
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勅許を得られないまま、堀田が江戸に戻った三日後。井伊直弼は、大老として就任しました。
大老となった直弼は、テキパキと行動します。
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その際、反対派に違勅の罪を責められ、調印中止を諫言した宇津木景福に対して、直弼はこう言いました。
「今戦っても、勝ち目はない。むやみに開国を拒んで負けてしまえば、国体を恥かしめることにもなる。しかし、勅許を得ずに開国した罪は、甘んじて受ける」
直弼の元には、条約の件で徳川御三家が押掛け登城してきました。
しかし、直弼はこれにも動じません。
そしてそのまま、南紀派の徳川慶福(のち将軍・徳川家茂)を将軍継嗣とする旨を公表したのでした。
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あくまで直弼は、公武が一致して難局に当たるべきだと考えていました。
その直弼の構想の足を引っ張ったのが、水戸の徳川斉昭です。
彼は姻戚関係を通じて朝廷工作を行い、自分を追い落とした堀田の失敗を狙っていたわけです。
キリシタンバテレンという国はどちらにありますのやろ?
この難局において、外交についても政治についても素人である公家を巻き込んだのは、大きなマイナスになったと言えます。
勝海舟は、こう言い残しています。
「当時の朝廷で開国が理解できていたのは、皇族では山階宮(山階宮晃親王)、公家では堤中納言(堤哲長)だけだった」
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二人は、当時の京都においてはかなり異色の人物でして。堀田はとある公家との会話中に、こう言われたそうです。
「ところで、キリシタンバテレンという国は、どちらにありますのやろ?」
こんな感じです。こんなレベルです。
異人というのは耶蘇のあやしい教えを信じていて、穢らわしい犬猫のようなものだから、ともかく追い払え――そんなレベルなのです。
政治的な能力も、実務から離れて長い年月が経過しています。
ハッキリ言ってしまいますと、外交政策も、知識も、実務能力も、経験も、幕府はトップレベルでした。言われているほど悪くないのです。
曲がりなりにも、二世紀以上政権運営をしてきたのですから、そりゃそうですわ。ノウハウは蓄積されており、少なくとも公家よりは断然マシ。
「開国ってなんどす?」という方たちを、ただ自分の政敵を追い落とすがために引き込んだ斉昭は、やはり反省すべき点があるのではないでしょうか。
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