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【凌霜隊】
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敗北者として罪人扱い
降伏後、凌霜隊は猪苗代での謹慎を命じられました。
雪が舞う寒い会津で、彼らは耐え忍ぶほかありません。
10月11日、日向内記から東京へ移送されると凌霜隊に伝えられます。
郡上藩預かりの処分となったのです。
しかし24日、郡上藩士の出迎えを受けた凌霜隊は失望します。
同じ藩士でありながらよそよそしく、冷たい。要は、厄介者扱いなのです。
11月15日。
大垣まで到着した凌霜隊は、囚人駕籠に乗せられ、荒縄でくくられました。もはや彼らは罪人扱いです。
その後、夕食を出されると知った凌霜隊の面々は身構えました。
ねぎらいか?
それとも人生最期の夕食なのか?
彼らに伝えられた命令は、あまりに冷たいものでした。翌日から牢屋に入れられるというのです。
揚屋(牢獄)に入れられた凌霜隊の隊士たちは、故郷で帰りを待っていた家族と再会することもできません。揚屋は粗悪な環境で、病に倒れる隊士も出たほどでした。
隊士は会津から戻った仲間の報告を喜び、戦傷死してしまった者の死を嘆く――そんな日々を過ごすことになります。
これでは凌霜隊があまりに不憫ではないか。
城下町からそんな声が起こりました。
明治2年(1869年)5月11日、揚屋に近い慈恩寺に領内の僧侶が集まり、凌霜隊の救援を藩庁に直訴。
これを受けて、凌霜隊の身柄は長教寺に移されました。
できれば暗殺したい 邪魔な存在
とはいえ、藩にとって凌霜隊はお荷物です。
できれば自害して欲しい、何なら暗殺したいほど邪魔でした。
が、手を下すには生存者が多すぎたのです。
この年の9月23日、会津落城から一年目の日。
凌霜隊は長教寺の本堂で、藩の使者から話を聞きました。
「朝廷からお慈悲があった。各自、自宅謹慎とする」
苦難の日々を乗り越え、やっと家に戻れるのでした。こうして凌霜隊は、苦難の末、解散に至ったのです。
明治3年(1870年)2月19日。
新政府から正式な赦免が届きました。
しかし、朝比奈茂吉はじめ多くの凌霜隊の隊士は故郷をあとにしてしまいます。
藩を救うために行動し、仲間は命を落としたというのに、罪人扱いされた彼らたち――そんな苦い思いを抱えた故郷に、留まりたくはなかったのでしょう。
郡上八幡は清流の流れが美しい町です。
岐阜の風光明媚も、凌霜隊にとってはあまりにつらい場所となってしまいました。
★
白虎隊とともに戦い、故郷から見捨てられた凌霜隊の面々。
彼らの姿に思いを馳せると、戊辰戦争という内戦の悲劇性が心の奥底に突き刺さります。
先ほど紹介した飯盛山にある彼らの慰霊碑は、昭和59年(1984年)、郡上八幡と会津の有志が協力し建立にこぎつけたものです。
飯盛山を訪れる機会のある方は、ぜひ、この慰霊碑にも目を留めていただければと思います。
戊辰戦争から150年。
彼らの出身地である郡上八幡では、凌霜隊について見直し、顕彰する動きが高まっております。
※脱藩処理されたか、二股であったかについては諸説がありまして、本稿ではこちらを採用しております。ご了承ください
※この二股論は、客観的にみれば「どちらに転んでも無事助かるように」という二股論に思えますが、郡上側からすれば「国元と江戸で議論して収収拾が付かなかったため、やむをえず別れた」ということになるそうです。
脱藩も、後付になるわけですね。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
『会津戦争秘話』
凌霜隊の歴史知って 飯盛山で慰霊碑に献花、岐阜・郡上の関係者(福島民友新聞・リンク切れ)