こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【武市半平太】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
吉田東洋暗殺
文久2年(1862年)夜、藩主・山内豊資に『日本外史』を講義した吉田東洋は、帰りに酒を飲むと雨の中、家路へ向かいました。
そこへ襲い掛かったのが那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助たち。
いくら剣術の腕を持つ東洋でも、三人相手には敵わず……。
享年47。
東洋の首は、斬奸状と共に晒されました。
保守派の家老に根回しをして、東洋の悪評をばら撒いていた半平太。
策は、功を奏して、土佐では東洋の暗殺を喜ぶ声まで出るほどです。
容疑の追及をかわした土佐勤王党が藩政の中央へ躍り出ると、その一方で「新おこぜ組」らの改革派は崩壊し、吉田家は断絶となります。
土佐勤王党の岡田以蔵は、吉田東洋の暗殺事件を調べていた下横目(捜査官)を絞殺。
かくして東洋の血を流し、武市半平太は土佐藩政の表舞台に立つのです。
風は土佐勤王党に吹いています。
長州藩は尊王攘夷を掲げる松下村塾出身者が実権を握り、安政の大獄以降息を潜めていた一橋派が復権を果たしました。
薩長に次ぐ藩として名乗りをあげるべく、土佐勤王党も意気軒昂でした。
そして、そんな彼らの圧迫を受けて山内容堂が上洛を果たすと、

山内容堂/wikipediaより引用
朝廷の圧力を得て将軍に攘夷の圧力をかける諸侯の一人となるのでした。
こう書くと、何から何まで半平太の計画通りに土佐が動いているようにも見えてくるかもしれません。
しかし、一連の流れは朝廷に金を配り、公卿を動かして実現したものであり、不満を抱く者は当然います。
実情は、非常に不安定な権力であったのです。
容堂と半平太の「呉越同舟」
京都に乗り込んだ土佐勤王党は、天誅をもたらしました。
幕臣の江間政発は、こう振り返っています。
「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰す看板である」
薩長に遅れをとる土佐藩が点数を稼ぎ、存在感をアピールする手段として【小攘夷】というヘイトクライムが選ばれました。
とはいえ内陸部の京都に外国人はそうそうおりません。
そこで、安政の大獄に関与した者、ときには「不届きである!」と一方的に見なされた者たちが、片っ端から犠牲となりました。
アピールのためでしょうか。遺体損壊のうえ、晒し者にすることもありました。
それだけではありません。
・河原に斬奸状とともに首を晒す
・斬るまでもないと絞殺された死体が全裸で磔にされる
・切り取った耳や指が、不満を抱く者の屋敷に投げ込まれる
こうした具合で、あまりにも酷い仕打ちが続きます。
そうした残虐行為に、半平太がどこまで関与したのか、ハッキリとはしません。
彼の日記には、こうした惨殺のニュースや、それを見物に行ったことが淡々と記されていました。
血生臭い日々を送る一方、武市半平太は山内容堂の前で滔々と尊王攘夷をまくしたてました。
聡明な吉田東洋に心酔していた容堂の胸中はいかばかりか……。
それでも半平太は国元の妻への書状に「容堂と心ゆくまで語り合った」と記していたのでした。
いやいや、容堂は腹の底で怒りを抱いていたことでしょう。態度に不満を抱くものが、土佐藩邸に生首を投げ入れたのです。
「こんなものは酒の肴にもならぬ」
そんな風に嘆く容堂を慰めたのは、松平春嶽でした。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用
東洋暗殺からおよそ一年後の文久3年(1863年)3月、半平太は京都留守居加役に任命されました。
白札郷士から上士格へ、破格の昇進です。
しかし、容堂は入れ替わるように土佐へ帰国し、こう命じていました。
土佐勤王党を調べあげよ――。
逮捕、拷問の日々
山内容堂が土佐勤王党を調べた理由は他でもありません。
吉田東洋の暗殺下手人を捜索させたのです。
恩人の死を忘れるはずもなく、容堂は土佐勤王党の息のかかった者たちを次々に罷免してゆきます。
4月、武市半平太は、土佐への帰国を画策します。
それはさすがに危険ではないか?と、久坂玄瑞が忠告するも、半平太は「命がけで諌める」として、敢えて火中に身を投じるように土佐を目指したのです。
捕縛された同志を救うべく、容堂への面会も堂々と願う半平太。
しかし、容堂は相手にせず、粛々と土佐勤王党への処断を進めてゆきます。
そして8月、暴挙にしびれを切らした孝明天皇の意を受け、長州藩過激派が壊滅しました。
【八月十八日の政変】そして【禁門の変】で大敗したのです。
半平太が心酔していた久坂玄瑞も、若い命を散らしました。これに呼応し土佐脱藩浪士・天誅組による蜂起があったものの鎮圧されました。(【天誅組の変】)
決定的に尊王攘夷派が不利に追い込まれる中、半平太も逮捕されます。
半平太は上士であることから拷問まではされず、獄中とはいえ、それなりに尊厳を保った扱いを受け、差し入れは自由でした。
読書や浄瑠璃を歌うこと。
歌を贈り合うこと。
愛妻の差し入れた花を眺めることはできたと伝わっています。
絵を描くこともでき、半平太は自画像や獄中図を残しました。

武市半平太が獄中で描いた自画像/wikipediaより引用
そうはいえども当時の牢獄です。悪臭。夏の暑さ。過酷な日々が過ぎてゆく。
そして、一人の男が事態を暗転させます。
岡田以蔵です。
半平太が残したものは?
「無宿鉄蔵」と名乗り京都で放浪していた以蔵が捕らえられ、土佐へ移送されてきました。
拷問に音を上げ、次から次へと実態を自白してゆく以蔵。
ついには半平太がシラを切っていた本間精一郎殺しまで白状し、その後も自ら手を下した殺人、共犯者を自白していくのです。
獄中にも動揺が走ります。
もはや我慢ならぬと服毒自殺を遂げる者、拷問死を遂げる者が相次いでゆく。
頭脳明晰であり、東洋を育ての親とした後藤象二郎が尋問に加わると、さらに追及は厳しくなりました。

後藤象二郎/wikipediaより引用
以蔵をいっそ殺したらどうか?
そんな意見も出たとはいえ、半平太としては許すわけにもいきません。
子のない武市夫妻にとって、彼は大きな子供のようなもので、面倒を見てきたのです。
獄中に毒の差し入れを頼んだ記録はあります。それを自ら服用する可能性もあります。
半平太が以蔵に毒入りの食物を届けて食べさせたものの、死ななかったという話も流布していますが、話として出来すぎてあり、創作の可能性は高いでしょう。
どうやら毒殺計画そのものはありながら、実行される前に斬罪を迎えることになりました。
長引く獄中生活で、半平太や以蔵ら土佐勤王党も、取り調べる側も、限界に近づいてゆきます。
そして慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、ついに状況証拠による有罪が決まったのです。
自白した以蔵ら4名が斬首。以蔵の首は晒され、半平太は切腹となりました。
ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
二度と返らない月日は儚いものだ。しかし今はもう、それを惜しまぬ身となった。
享年37。
死後、子のない富子は養子を取り、武市家を継がせました。
★
幕末から明治にかけ、土佐藩出身で実績を残したのは、吉田東洋の教えを受けた後藤象二郎や板垣退助、岩崎弥太郎などでした。
幕末土佐藩で最も知名度が高く人気がある坂本龍馬は、「半平太にはついていけない」と別の道を選んでいます。
その一方で、高雅な人格と趣味、冒頭にあげた月形半平太の人気もあり、武市半平太は芳名を残しました。
とはいえ2020年代を迎え、武市半平太の人気が高まることは考えられにくくなっています。
ゲームを通して岡田以蔵の人気が高まった結果、彼を使い捨てにした冷酷さが注目され。
さらにはテロリズムで世の中を変えようとした過激な行動が、常軌を逸しているとして受け入れられなくなっているのです。
幕末とはそういう時代といえばそうでしょう。
しかし、他の志士は功績や思想も残しており、武市半平太にはそれがない。理不尽な理由で殺害された吉田東洋の方が、この点においても圧倒的に上です。
半平太にあったという「君臣の忠義」もあまりに身勝手でしょう。
脱藩は不忠としながら、容堂が敬愛した東洋を謀殺しており、そのうえで根回しをして藩政に足を踏み入れたのです。
もしも吉田東洋が明治を生きていたらどうなっていたのか?
その問いかけは有用に思えます。
テロリズムが賞賛される幕末という時代ならではの、流血に酩酊しきった悲劇がそこにはありました。
武市半平太の生き方が賞賛される時代とは、良い時代とは到底思えないのです。
あわせて読みたい関連記事
-
岡田以蔵~人斬り以蔵と呼ばれた男は実際どれだけ斬った?捨て駒にされたその最期
続きを見る
-
幕末土佐を牽引した吉田東洋~容堂に重用されながらなぜ半平太に暗殺されたのか
続きを見る
-
後藤象二郎~西郷に並ぶ人物と評された土佐藩士~板垣や龍馬の盟友60年の生涯とは
続きを見る
-
坂本龍馬は幕末当時から英雄扱いされていた? 激動の生涯33年を一気に振り返る
続きを見る
-
中岡慎太郎の功績をご存知? 実は龍馬にも負けていない薩長同盟の功労者だった
続きを見る
-
14才で無人島に漂流しアメリカ捕鯨船で米国に渡ったジョン万次郎の劇的な生涯
続きを見る
-
板垣退助は喧嘩っ早い!実は龍馬と同世代だった土佐藩士が自由民権運動に至るまで
続きを見る
-
一代で三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の豪腕!一介の土佐郷士が巨大企業を作るまで
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
松岡司『武市半平太伝』(→amazon)
平尾道雄『吉田東洋』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人名事典』(→amazon)
一坂太郎『暗殺の幕末維新史』(→amazon)
他