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【武市半平太】
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安政の大獄そして桜田門外の変
このころ開明的な土佐藩主の山内容堂は政争に関わっていました。
【将軍継嗣問題】です。
第13代将軍・家定のあと、将軍を誰にすべきか?
紀州藩主・徳川慶福を押す【南紀派】と、水戸藩主徳川斉昭の子・一橋慶喜を押す【一橋派】で別れていました。
容堂は水戸藩の藤田東湖を信頼し、号の「容堂」も彼の言葉から取っています。
いわば熱心な一橋派です。
しかし、ただでさえ幕府混迷の時期に、政局を混乱させてばかりの一橋派に対し、大老・井伊直弼は大鉈を振いました。

井伊直弼/wikipediaより引用
安政5年(1858年)、安政の大獄です。
吉田松陰の刑死があまりにも有名なため、安政の大獄は「討幕運動の取り締まりである」とされがちですが、それは大きな誤解。
あくまで政争の混乱を治めるためのものでした。
結果、一橋派である容堂は隠退を余儀なくされます。
ただし、後継者となる山内豊資はまだ若く、藩の実権は依然として「老公」こと容堂にありました。
容堂は、吉田東洋と新進気鋭の「新おこぜ組」を起用し、抜本的な反省改革に意欲を燃やします。
そのころ土佐藩にも尊王攘夷の気風が届いていました。
安政の大獄を経て迎えた安政7年(1860年)、井伊直弼が桜田門外の変に斃れ、この事件に「志士」たちは衝撃を受けます。
テロリズムが政局を動かすと学んでしまったのです。
「書正論に過ぎぬ」その知識
文久元年(1861年)、半平太はそんな空気が煮えたぎる江戸へ、剣術修行の名目で入りました。
そこには錚々たる面々が揃っていました。
久坂玄瑞にすっかり惚れ込んだ半平太は、尊王攘夷において土佐藩は遅れていると痛感。
そこで誇大妄想のような計画を練ります。
長州藩の久坂玄瑞、薩摩藩の樺山三円と示し合わせ、藩論を攘夷でとりまとめ、藩主を上洛させる――そして幕府にさらなる攘夷を迫る。
こんな途方もない計画を実行に移すべく、半平太は【土佐勤王党】を結成したのでした。
土佐勤王党は瞬く間に192人の団体へと膨れ上がります。
彼らは下士・郷士・浪人・庄屋・豪農といった層で構成されており、土佐におけるエリート階層の上士はほとんど加わっていません。
幕末はこうした下層階級の力が世を動かしたとされます。
しかし、実態は美しいものではありません。
言い換えれば彼らの多くには知識の裏付けがなく、勢いや限られた知識の範囲だけで強引に政治に介入したともいえるのです。
視野狭窄とでも言いましょうか。
そんな尊王攘夷論を掲げる武市半平太が理想の政治論を語っても、吉田東洋は「書正論に過ぎぬ」とあしらいます。

吉田東洋/wikipediaより引用
なんせ東洋にしてみれば、半平太らが頼りとしていた公卿たちからして、政治も海外の知識もありません。
これはなにも東洋一人の意見でもなく、当時の知識層にとっては当然の認識。
ジョン万次郎からアメリカの様子を見聞していた東洋にとって、半平太の攘夷論など空虚な理想論であり、話にもなりませんでした。

ジョン万次郎/wikipediaより引用
島津久光が二千の兵と共に上洛
切歯扼腕する半平太のもとに、文久2年(1862年)、薩摩から驚きの報告が届きます。
薩摩藩国父(藩主の父)・島津久光が二千の兵と共に上洛するというのです。
もはや藩にこだわらず、国を憂う志士は京都に集結すべきだ!という論も広がりました。
しかし、半平太はあくまで藩をあげて攘夷を断行すべきだという考えを曲げません。
この頑固さについていけず、坂本龍馬らも脱藩。

坂本龍馬・上野彦馬が長崎に開業した上野撮影局で撮影/wikipediaより引用
半平太からすれば、藩主の側で悪しき考えを吹き込む吉田東洋が疎ましくてなりません。
薩摩に遅れるわけにもいかぬと焦燥感も募ります。
そこで半平太は、最大の敵である東洋の弱点を突くこととします。
東洋の大胆な人材登用と強気ば性格は、同時に敵も作っていました。そこで保守派に手を回し東洋の悪評を撒き失脚を企むのですが、現実は容堂と東洋は分かち難い関係でびくともしません。
そのうち、保守派の山内民部がこう漏らします。
「東洋さえいなければ……」
桜田門外の変以来、こうした言葉には重い意味があります。
悪を斬り捨てることで世は変わる――当時の志士たちはそう信じていたのです。
そこで半平太は決意を固めました。
吉田東洋を斬るべし!
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