黒船が来航したから?
いいえ、それだけではありません。
相次ぐ飢饉。
自然災害。
様々な対応に迫られ、どの藩も借金まみれとなり、それに加えて外国からの脅威まで重なったのですから、もうどうにもなりません。
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そんな激動の最中、全国屈指のベリーハードモードに突入した藩がありました。
松前藩です。
北海道のほぼ最南端に松前城を構えた同藩。
彼らは新政府軍についたものの幕府軍に大敗し、さらには城下町で大火災という悲惨な事態に陥ってしまいます。
本日は、松前藩の歴史を見てみましょう。
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コシャマインの乱で武田信広大活躍
蝦夷地――それは【中央政権に屈しない民族が暮らす土地】というのが、中世以来の和人による認識でした。
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東北地方は、和人の大名によって支配されたとみなされ、津軽海峡の向こうにある蝦夷地は未知の地――その状況が変わったのは、実は室町時代です。
津軽海峡を含め、本州最北端を治めていた安東氏が、蝦夷地南部と交易をしていました。
現在の北海道南部は、アイヌ語由来と日本語由来の土地名が混在しています。両者が混在していた証拠でしょう。
しかし、こうした暮らしも安寧に続いたわけではありません。
あるとき交易をめぐるトラブルが勃発。
口論の末、刀鍛冶がアイヌ男性を殺害してしまったのです。
康正3年(1457年)、コシャマインを中心としたアイヌが蜂起し、和人たちに弓を引きました。
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このコシャマイン父子を討ち取ることに成功したのは、武田信広という武将です。
松前藩主・蠣崎氏の祖とされているのですが、その経歴はどうも誇張が多く、信ぴょう性はいまひとつハッキリしておりません。
松前藩祖であるため、話が盛られてしまったようです。
ありていに言ってしまえば「正体不明の武将」かなぁと。
信広はこのあと、蝦夷地の和人館・上国花沢館の蠣崎季繁の娘を娶り、蠣崎と名乗るようになります。
たった一度の戦いで、素性不明の武将・武田信広は立身出世――子孫も着実に力をつけ、蝦夷地南部を支配するようになったのでした。
蝦夷地の大名・松前氏誕生
信広の治世から、約百年、時代が降りまして、蠣崎慶広(1548-1616年)の時代。
あるチャンス当来の話が、津軽海峡を超えて伝わってきます。
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伊達政宗あたりにとっては残念無念、野望終了の合図となったこのとき。
「天下人に認められ、大名になるチャンスだ!」とみなす武将もいました。
蠣崎慶広もその一人です。
奥州検地に豊臣家の家臣が派遣された頃の天正18年(1590年)。
彼らが津軽まで来ると知った慶広は、従属していた安東実季(あんどうさねすえ) の許可を得て、上洛します。
聚楽第での秀吉は大喜びでした。
慶広を従五位下にして、蝦夷地を支配する大名として認めたのです。
安東実季からすれば勝手に独立されて、しかも秀吉に取り入られて、複雑な気分だったでしょう。
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豊臣政権のもと、こうして蝦夷地を治める大名が誕生したのです。
徳川政権においても関係良好
政権が滅び、徳川にその権力が移り変わってからも慶広は巧みに立ち回ります。
家康と面会した際は、唐衣(サンタンチミプ、蝦夷錦で作った衣服、清朝官服)を着ていたそうです。
「おっ、その服いいね」と、家康は興味津々。慶広は即座に脱いで献上したのだとか。
立ち回る慶広の巧みさがわかります。
こうして、蠣崎氏から松前氏となり、蝦夷地に藩が誕生します。
とはいえ松前氏によるアイヌの支配が認められたわけではありません。
アイヌと交易して、その利益で運営してゆく異例措置の藩はこうして生まれたのです。
広大な蝦夷地をこんな小さな藩で統治できるのだろうかと、ちょっとツッコミたくなりますが、藩成立時は、そもそも統治を任せ切ったわけではありません。
このことは更に時代が降るにつれ、大きな問題となってゆきます。
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