徳川義直

徳川義直/wikipediaより引用

徳川家

家康の九男・徳川義直は家光と火花バチバチ!尾張徳川家初代の生き様に注目

2024/05/07

慶安三年(1650年)5月7日は、家康の九男であり、御三家の一つ・尾張徳川家の初代である徳川義直が亡くなった日です。

生まれが慶長五年(1600年)ですから、ちょうど50歳で亡くなったわけですね(数えで享年51)。

さすが子沢山の徳川家康

徳川義直の肖像画

徳川義直/wikipediaより引用

豊臣 秀吉が亡くなってアレコレ混乱してた時期でも子をもうける仕事もキッチリとこなし……というわけで今回は徳川義直の生涯を振り返ってみましょう。

 


初代名古屋城主に!

徳川義直は大坂城西の丸もしくは伏見城で生まれたといわれています。

幼名は千代君からチェンジして五郎太丸という実に言いにくい名前。

織田信長に対抗したかったのですかね(長男の織田信忠が奇妙丸で、次男の織田信雄は茶筅丸)。

元服が6歳のときなので、家康も最初から「どうせ数年しか使わない幼名だし」とか思っていたりして。

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そんな義直は、当初、甲府藩主として任じられました。

幼いゆえに現地へ行くことはなく、母親と共に父のいる駿府に引き取られて育ちます。

元服の翌年には、夭折した家康四男・松平忠吉の領地だった清洲(愛知県清須市)を継ぎ、そのまま新築された名古屋城へと移り、尾張国の主となります。

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学問を奨励し尾張徳川家の礎を固める

年齢が年齢ですので、実際に尾張へ入ったのは大坂の陣の後でした。つまり家康が亡くなった直後でもあるんですが、喪とかどうしてたんでしょう。

なお、初陣は大坂冬の陣で経験しておりましたが、ご存知のとおりそれは夏の陣を含めて戦国最後の戦い。

交通の要衝である尾張を任せられた義直は、その後、戦ではなく内政重視で取り組みました。

家臣任せにせず積極的に自ら仕事をし、また学問を奨励したことで尾張徳川家の基礎を作ったのです。

儒教が好きだったので基本的にはお堅い人だったと思われますが、その一方で家康の形見としてもらった本や、自分で集めた本を「蓬左文庫(ほうさぶんこ)」という施設にまとめ、一般にも公開するという気前の良さもありました。

蓬左文庫/photo by Bariston wikipediaより引用

蓬左文庫は名古屋市立となって、今でも徳川美術館(尾張徳川家直属の公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館)や徳川園に併設されているので、名古屋の方や観光に行かれた方にはお馴染みでしょうかね。

ワタクシも一度行ったことがあります。

そんなわけで地味ながらも着実に藩の基礎を作っていった義直。

肉親とはたびたび火花を散らすこともありました。

 

家康の息子ゆえに年の近い将軍家光と火花を散らす

「俺は権現様の息子で60万石の大名だぞ」という意識の強かった義直。

特に三代将軍・徳川家光とはよくぶつかりました。

歳にしたら4つしか変わらないんですが、それでも家光にとっては叔父さんですから、長幼の順で考えれば目上ということになります。

雪化粧の名古屋城

また、家光の息子・徳川家綱が神社へお参りに行くとき、幕府から「御三家の皆様も同行なさるように」との知らせがありながら、「無位無官の者に官位ある者がへつらうことはできない」と言って拒否したこともありました。

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そのころ義直は従二位・権大納言という高位。家綱が正式に征夷大将軍もしくは自分と同等以上の官位にならないとやなこった、というわけですね。

ただし、それから三年後、家綱はバッチリ義直と同じ官位になっています。

まだ家光の存命中だったので、もしかしたら意趣返しだったかもしれませんねえ。キャーコワーイ。

とはいえ、この真面目さが良い方向に動いたこともありました。義直は身持ちの固い人で、正室と結構うまくやっていたようなのです。

残念ながら正室との間に子供ができなかったため、側室を娶ることになったのですが、戦国の「子供は多ければ多いほどいい」=「側の女性も以下同文」といった気風が強かった時代にしては珍しいほうです。

ちなみにこのとき、家臣が側室をもらってくださいと言っても嫌がったので、土井利勝が幕命として側室を持つよう勧めたのだそうです。

利勝もあっちこっちで大変ですね。

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その後、義直の跡を継いだのは側室との間に生まれた光友だったので、めでたしめでたしというところでしょうか。

 


御三家筆頭でありながら将軍を輩出せず

しかし残念ながら、尾張家の家風は真面目すぎて、江戸時代中期のドロドロした政争には向かなかったようです。

六代将軍・徳川家宣が就任からわずか三年で亡くなったときに尾張家当主・徳川吉通。

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七代将軍・徳川家継が夭折したときの当主・徳川継友。

それぞれ将軍候補に上がったことがありました。

ところが、です。

皆さんご存知の通り、尾張家からは一人も征夷大将軍になった人がいません。候補に上がった段階で、皆突如として亡くなってしまっているからです。

あまりにもタイミングがアレな上、この他の尾張藩主や息子達もやたらと急死や夭折が多く、きな臭いどころの話ではありません。

いくら医学が未発達で乳幼児の死亡率が高い時代だとはいえ、一番環境がいいはずの藩主の一族がこの有様というのは、怪しいですよね……。

ようするに政敵からのスパイがアレコレしたのでは……という疑いが濃いわけですが、残念ながら「疑い」の範疇を出ません。悪寒が的中なら、いい仕事しやがる。

もし、尾張家にそうした狡猾な政敵に対抗できるだけのがめつさ……もとい悪賢さがあれば、一人くらいは将軍の座についていたかもしれません。

御三家筆頭といわれながらも、尾張家だけが将軍の輩出皆無というのはあまりにも、ねえ……(´・ω・`)

水戸家も徳川慶喜が一橋家に養子入りしたからこそ将軍になれたのですから、ある意味ギリギリですけどね。

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じゃあ勝ち組は紀州家かと思えば、現代では断絶がほぼ確定視されていますし。

そういえば尾張藩主と言えば、これまたなかなか無茶した徳川宗春もおりましたね。

質素倹約を推奨する幕府とは真逆の道を行き、名古屋を好景気に沸かせながら、やり過ぎて失脚した御方です。

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尾張藩って面白いですなぁ。

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【参考】
国史大辞典
菊地浩之『徳川家臣団の系図』(→amazon
『歴史人 2019年 9月号』(→amazon
徳川義直/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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