徳川家宣/wikipediaより引用

江戸

在位3年で死亡の六代将軍・徳川家宣は清廉クレバー! 知られざる実績が凄い

寛文二年(1662年)4月25日、後に江戸幕府六代将軍となる徳川家宣が誕生しました。

「犬公方」で悪名高い(でも、実は名君だったのでは?)という五代将軍・綱吉の次。

わずか3年で亡くなってしまうため、ほとんど知られていない存在ですが、新井白石を登用した後、現代にも通じそうなクレバーな政治手法で静かな改革に取り組んでいます。

賄賂やゴマスリを嫌っていたという性格の持ち主でもありました。

早速、その生涯を振り返ってみましょう。

徳川家宣 基本データ

生誕:寛文二年4月25日
(新暦:1662年6月11日)

死没:正徳2年10月14日
(新暦:1712年11月12日)

在位:1709~1712年

父親:徳川綱重(徳川家光の三男で甲斐甲府藩主)

母親:順性院(お夏の方/京都町人の娘)

正室:隆崇院(関白・二条光平の娘)

継室:紅玉院(中納言・綾小路俊景の娘)

 

犬公方の甥っ子・徳川家宣

この時代のお約束で、徳川家宣さんも名前がコロコロ変わっています。家宣で統一しますね。

家宣は、徳川綱吉の養子で、もともとは甥っ子。

綱吉の兄である徳川綱重の息子だったのですね。

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綱重が正室と結婚する直前、身分の低い女中に手をつけてしまったという、テンプレな経緯で生まれました。

そのため綱重は体裁が悪く、幼い家宣を家臣に押し付け、しばらく別の名前を名乗らせていたのです。

天一坊事件でも似たようなことを書きましたが、デキて困るような関係の相手ほど命中率が高くなるのはなぜでしょうか。

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一応、トーチャン綱重のフォローをしておきますと……。

数学マニア・関孝和を召抱えておりました。

孝和は後に家宣のお供をして江戸で働き、和算の発展に努めています。

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家宣も儒学者・新井白石を重用しますが、学問を重視する姿勢は、ある意味トーチャンからの最大の遺産だったかもしれませんね……。

閑話休題。
結局、綱重はなかなか男児に恵まれず、家宣が呼び返されて徳川姓を名乗るようになります。何だかなぁ。

 

順番待ちには慣れていたが、48才で将軍はさすがに

実は、家宣という人は、この手の「順番待ち」を生涯何度も経験しています。

かなり回りくどいのですが、できるだけ簡潔に説明しますので、少しお付き合いください。

家宣が生まれたときの将軍は、伯父にあたる四代・徳川家綱で息子がいませんでした。

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そのため家宣はいったん五代将軍の候補になりながら「家綱様の弟君である綱吉様が先に将軍になるべき」ということで、五代目が綱吉になったのです。

さらに六代将軍になる前にも、綱吉の娘が紀州藩主・徳川綱教(つなのり/八代徳川吉宗の兄)に嫁いでいたため、

「綱教殿に男子が生まれたら、本家にもらって将軍にしよう」

ということで、またもや家宣は保留されていました。

なんなら綱教自身も将軍候補になっていたほどです。

しかし、綱教本人が亡くなってしまい、男児にも恵まれず、血筋の近い順ということでようやく家宣にお鉢が回ってきました。

こうした経緯があったせいで、1709年に綱吉が亡くなり、家宣が六代将軍の座についたときには既に48歳。

当時の感覚でいえば老人の仲間入りした頃ですね。

※平均寿命と比較したいところですが、江戸時代以前は乳幼児の死亡率が非常に高いためあまり参考になりません(どうしても低く偏りが出てしまう)

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