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【シーボルト】
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楠本滝との間に娘のイネをもうけ、翌年に……
こうして表と水面下で火種を撒きながら、シーボルトたちは長崎へ帰っていきました。
1827年には日本での妻・楠本滝との間に、娘・楠本イネが生まれています。
彼女については以前取り上げていますので、ご興味のある向きは以下の記事をどうぞ。
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楠本イネ~父はあのシーボルト~日本初の女医が歩んだ茨の道とは?
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【シーボルト事件】は、その翌年のことです。
元々シーボルトはこの年に帰国する予定だったのですが先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出するという事故がおきました。
その一部が日本の海岸に流れ着き、幕府禁制の日本地図があったことから大問題になったのです。
地図や海図が他国に渡れば、日本の地勢がバレ、侵略する手助けをするようなもの。当然、幕府はシーボルトに地図の返却を要求しました。
しかし彼が頑なに拒否したため、出国停止の後、国外追放処分となります。
当初の予定ではこれは一時帰国で、3年後に再来日する予定だったのですが、それも拒否されました。
また、シーボルトと交流のあったさまざまな学者が連座・投獄されています。
だからこそ、外国人が中心の事件なのに、日本史でも大きく扱われるんですね。
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シーボルト事件はナゼ起きた? 地図を交換した高橋景保はどうなった?
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こうして不本意な形で日本を去ったシーボルト。
オランダに帰り着いたのは1830年のことでした。
一部は失われたとはいえ、それでも動植物の標本や文学・民族学的なコレクションは総計2万6000点以上もありました。よく長旅に耐えられたものですね。
あのペリーもシーボルトの著作を参考に来日していた!?
帰国後もオランダ政府から叙勲されたり、オランダ領東インド陸軍の参謀部で、日本関係の事務仕事を任されたりと、日本との接点は消えておりません。
個人的な著作にも励み、全7巻の記録集「日本」を刊行していきました。
これは当時の欧米社会にとって、唯一無二に等しい日本の史料とみなされ、黒船来航のマシュー・カルブレイス・ペリーも参考にしたといわれています。
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ペリーはアメリカで無名な存在だった!? めちゃめちゃ苦労して進めた開国交渉
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かくして日本研究の第一人者として世間に知られるようになったシーボルト。
ドイツのボン大学から、ヨーロッパ初の日本学教授として招聘されたこともあります。
教授になってしまうと日本に行きにくくなるからか、断っていますが。ちょっともったいないですね。
その後は日本の開国のために動いています。
オランダ国王やロシア皇帝の親書を起草したり、ペリーに対し「交渉(物理)はやめたほうがいいですよ(´・ω・`)」(超訳)と勧めたり、この時代としても度が過ぎた親日ぶりを示しました。
神様がその努力に免じてくれたのか、シーボルトの再来日は叶います。
日本が1854年に開国し、その後、オランダとの間に通商条約が結ばれた際、追放令が解除されたのです。
かくしてシーボルトは1859年、オランダの貿易会社の顧問として、約30年ぶりの再来日を果たします。
そこから幕府の顧問にまでなってしまうんですね。
彼の親日ぶりを証明しているというか、なんというか凄いです。
ただ、獄死してしまった高橋景保が可哀相というか……(´・ω・`)
せっかく再来日したのに幕府に睨まれ、退去アゲイン……
シーボルトは、オランダの他、プロイセンやフランスからの公使が日本に来るたびに接触し、積極的に情報を提供しています。
何だかアヤシイ気もしますが、元々「日本は開国すべき」と考えていたからでしょうね。
開国したからには、欧米諸国とうまくやっていってほしかったのでしょうし。
しかし、この動きは幕府にとって好ましいものではありません。
江戸からの退去と顧問職解雇を言い渡され、1862年5月にオランダへ帰国することになってしまいました。
帰国前にはオランダでの妻との間に生まれた息子・アレクサンダーをイギリス公使館の職員にしてくれるよう、イギリス公使ラザフォード・オールコックに依頼しています。
……日本との接点を保つために息子をダシにしたとか、まさかそんな。
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ラザフォード・オールコックの功績~幕末維新の日英関係に欠かせない
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帰国はしたものの、その後も日本の研究については未練があったようです。
軍の役職に任命された後も、対日外交の部署に配属してくれるよう頼んだり、日本で集めたコレクション2,500点の買い取りをオランダ政府に持ちかけたりしていました。
また、日本追放による損失への保証も求めています。どれも失敗していますが。
学生時代の喧嘩っ早さといい、対人交渉があまり得意ではなかったのかもしれません。
ミュンヘンのお墓に訪れる日本人も多いとか
オランダという国に失望したのか、公職を辞めたシーボルトはドイツの故郷・ヴュルツブルクへ帰ります。
それでもまだ日本への情熱は消えておらず、1864年5月に渡欧してきた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発に協力したりしているのですが。根性パネエ。
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故郷に帰ってからも、バイエルン国王ルートヴィヒ2世に日本から持ち帰ったコレクションの売却を提案しています。
ここでもやはり断られてしまいましたが、ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催しました。亡くなる直前はミュンヘンでも行っています。
本当に最後の最後まで、日本のことをヨーロッパに伝えようとしていたんですね。
三回目の来日も希望しつつ、結果的に風邪をこじらせて敗血症となり、ミュンヘンで息を引き取りました。
そのため、お墓も旧ミュンヘン南墓地にあります。

こちらは長崎市にあるシーボルト記念館/photo by STA3816 wikipediaより引用
個人の旅行記などしか画像が見つからないのでここに載せられないのですが、なんとも特徴的な形のお墓です。
おそらくはシーボルトのスケッチか何かから、仏塔の形を再現しようとして作ったのだと思われます。日本の仏塔とはかなり違う形ですしね……当たり前ですが。
ミュンヘン自体が観光地でもありますし、シーボルトの墓を訪れる日本人も多いのだとか。
日本人の旅行記や動画はあるのに、グーグルマップでは出てこない辺りが、ヨーロッパでの彼への関心の薄さを示しているような気もします。
まあ、ペリーもアメリカでの知名度は低いそうですし、日本人相手に有名になったことのほうが、シーボルトにとっては嬉しいかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
小島 英記『幕末維新を動かした8人の外国』(→amazon)
シーボルト/wikipedia