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【シーボルト】
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せっかく再来日したのに幕府に睨まれ
シーボルトは、オランダの他、プロイセンやフランスからの公使が日本に来るたびに接触し、積極的に情報を提供しています。
何だかアヤシイ気もしますが、元々「日本は開国すべき」と考えていたからでしょうね。
開国したからには、欧米諸国とうまくやっていってほしかったのでしょうし。
しかし、この動きは幕府にとって好ましいものではありません。
江戸からの退去と顧問職解雇を言い渡され、1862年5月にオランダへ帰国することになってしまいました。
帰国前にはオランダでの妻との間に生まれた息子・アレクサンダーをイギリス公使館の職員にしてくれるよう、イギリス公使ラザフォード・オールコックに依頼しています。
……日本との接点を保つために息子をダシにしたとか、まさかそんな。
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帰国はしたものの、その後も日本の研究については未練があったようです。
軍の役職に任命された後も、対日外交の部署に配属してくれるよう頼んだり、日本で集めたコレクション2,500点の買い取りをオランダ政府に持ちかけたりしていました。
また、日本追放による損失への保証も求めています。どれも失敗していますが。
学生時代の喧嘩っ早さといい、対人交渉があまり得意ではなかったのかもしれません。
ミュンヘンのお墓に訪れる日本人も多いとか
オランダという国に失望したのか、公職を辞めたシーボルトはドイツの故郷・ヴュルツブルクへ帰ります。
それでもまだ日本への情熱は消えておらず、1864年5月に渡欧してきた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発に協力したりしているのですが。根性パネエ。
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故郷に帰ってからも、バイエルン国王ルートヴィヒ2世に日本から持ち帰ったコレクションの売却を提案しています。
ここでもやはり断られてしまいましたが、ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催しました。亡くなる直前はミュンヘンでも行っています。
本当に最後の最後まで、日本のことをヨーロッパに伝えようとしていたんですね。
三回目の来日も希望しつつ、結果的に風邪をこじらせて敗血症となり、ミュンヘンで息を引き取りました。
そのため、お墓も旧ミュンヘン南墓地にあります。
個人の旅行記などしか画像が見つからないのでここに載せられないのですが、なんとも特徴的な形のお墓です。
おそらくはシーボルトのスケッチか何かから、仏塔の形を再現しようとして作ったのだと思われます。日本の仏塔とはかなり違う形ですしね……当たり前ですが。
ミュンヘン自体が観光地でもありますし、シーボルトの墓を訪れる日本人も多いのだとか。
日本人の旅行記や動画はあるのに、グーグルマップでは出てこない辺りが、ヨーロッパでの彼への関心の薄さを示しているような気もします。
まあ、ペリーもアメリカでの知名度は低いそうですし、日本人相手に有名になったことのほうが、シーボルトにとっては嬉しいかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
小島英記『幕末維新を動かした8人の外国』(→amazon)
シーボルト/wikipedia