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【シーボルト】
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徳川家斉に謁見 江戸の学者とも親交を深めた
その他、日頃の医療や教育、生活態度は真面目だったようで、特別に出島を出て長崎の町で診察することも許されています。
1826年にはオランダ商館長(カピタン)が江戸へ参府する際、お供の一員として同行しました。
道中も日本の自然を研究することに没頭し、地理や植生、気候、天文などを調査していたとか。
仕事熱心ですね。スパイっぽくもありますが。
シーボルト自身も十二代将軍・徳川家斉に謁見し、江戸の町では積極的に日本の学者らと交友しました。
メンツは将軍御典医・桂川甫賢、蘭学者・宇田川榕庵、元薩摩藩主・島津重豪、中津藩主・奥平昌高、蝦夷探検家・最上徳内、天文方・高橋景保など。
いや、もう、錚々たるメンツですね。
徳内からは北方の地図をもらい、高橋景保とは【最新の世界地図と最新の日本地図の交換】を行いました。
これが後々大問題になります。いわゆる【シーボルト事件】です。
ちなみに、同行させてもらった商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルには「学術調査に非協力的」との理由で、決闘を申し込んでいたそうで。
決闘好き、変わっとらんのかーい!
てか、その人、一応上司ですよね……。
楠本滝との間に娘のイネをもうけ、翌年に……
こうして表と水面下で火種を撒きながら、シーボルトたちは長崎へ帰っていきました。
1827年には日本での妻・楠本滝との間に、娘・楠本イネが生まれています。
彼女については以前取り上げていますので、ご興味のある向きは以下の記事をどうぞ。
楠本イネはあのシーボルトの娘~日本初の女医として歩んだ道を振り返る
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【シーボルト事件】は、その翌年のことです。
元々シーボルトはこの年に帰国する予定だったのですが先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出するという事故がおきました。
その一部が日本の海岸に流れ着き、幕府禁制の日本地図があったことから大問題になったのです。
地図や海図が他国に渡れば、日本の地勢がバレ、侵略する手助けをするようなもの。当然、幕府はシーボルトに地図の返却を要求しました。
しかし彼が頑なに拒否したため、出国停止の後、国外追放処分となります。
当初の予定ではこれは一時帰国で、3年後に再来日する予定だったのですが、それも拒否されました。
また、シーボルトと交流のあったさまざまな学者が連座・投獄されています。
だからこそ、外国人が中心の事件なのに、日本史でも大きく扱われるんですね。
シーボルト事件に巻き込まれた高橋景保 その最期はあまりに不憫な獄中死だった
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こうして不本意な形で日本を去ったシーボルト。
オランダに帰り着いたのは1830年のことでした。
一部は失われたとはいえ、それでも動植物の標本や文学・民族学的なコレクションは総計2万6000点以上もありました。よく長旅に耐えられたものですね。
あのペリーもシーボルトの著作を参考に来日していた!?
帰国後もオランダ政府から叙勲されたり、オランダ領東インド陸軍の参謀部で、日本関係の事務仕事を任されたりと、日本との接点は消えておりません。
個人的な著作にも励み、全7巻の記録集「日本」を刊行していきました。
これは当時の欧米社会にとって、唯一無二に等しい日本の史料とみなされ、黒船来航のマシュー・カルブレイス・ペリーも参考にしたといわれています。
ペリーはアメリカで無名な存在だった!? めちゃめちゃ苦労して進めた開国交渉
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かくして日本研究の第一人者として世間に知られるようになったシーボルト。
ドイツのボン大学から、ヨーロッパ初の日本学教授として招聘されたこともあります。
教授になってしまうと日本に行きにくくなるからか、断っていますが。ちょっともったいないですね。
その後は日本の開国のために動いています。
オランダ国王やロシア皇帝の親書を起草したり、ペリーに対し「交渉(物理)はやめたほうがいいですよ(´・ω・`)」(超訳)と勧めたり、この時代としても度が過ぎた親日ぶりを示しました。
神様がその努力に免じてくれたのか、シーボルトの再来日は叶います。
日本が1854年に開国し、その後、オランダとの間に通商条約が結ばれた際、追放令が解除されたのです。
かくしてシーボルトは1859年、オランダの貿易会社の顧問として、約30年ぶりの再来日を果たします。
そこから幕府の顧問にまでなってしまうんですね。
彼の親日ぶりを証明しているというか、なんというか凄いです。
ただ、獄死してしまった高橋景保が可哀相というか……(´・ω・`)
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