江戸時代の時代劇と言えば水戸黄門。
ご存知、徳川光圀の旅を描いたもので、ドラマでは悪人退治しか取り上げられませんが、実は日本で初めてラーメン(最近その記録が更新されたとも……)や餃子を食べたり。
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【生類哀れみの令】を無視して肉を食いまくったり。
なかなか剛毅なお方です。
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一方で、当時の上流階級らしく文化的な事業にも取り組んでいました。
水戸藩が光圀の代から編纂していた『大日本史』のうち240巻を幕府に献上したのが享保5年(1720年)10月29日のこと。
全397巻が最終的に完成したのは明治三十九年(1906年)ですから、途中報告というところでしょう。
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若い頃は成敗されそうだった厨ニが18歳で開眼すると
若い頃はむしろドラマで成敗される側に近かった光圀。
18歳のとき、中国の伯夷(はくい)という儒教の聖人の伝記を読んで感銘を受けます。
どんな話だったのか。簡潔に説明しますと……。
ときは4000年ほど前。
中国は殷(商)王朝の時代でした。
あまりにも殷の王様が横暴なので、元配下だった周という国の王様が
「あんなヤツもう王様でもなんでもねえ!ブッkrしに行くぞ!」
と兵を挙げます。
その途中で伯夷とその兄弟・叔斉(しゅくせい)が
「どんなにバカ殿でも、主君を討つなんてとんでもない! アナタ第一喪中じゃないですか! お父さんが悲しみますよ!」
と反対したのですが、聞き入れられません。
そこで二人とも逆ギレし、
「周のメシなんて食いたくない!」
と餓死の道を選んだ――。
という、後世からからすると、なんだかよくわからないエピソードです。
周に対する嫌がらせだったんでしょうか。
何はともあれ、光圀はこの話を読んで行いを改め、「歴史は大事なんだ!」と思い直したと言います。
とりあえず深くツッコまないことにしておきましょう。
この後もツッコミどころあり杉……。
歴史にショック!藩主就任前から編纂を始める
よほどのカルチャーショックだったのか。
光圀は父・徳川頼房から藩主の座を受け継ぐ前に歴史書の編纂を始めてしまいます。
このとき明暦三年(1657年)。
江戸三大火事の一つ【明暦の大火】で、水戸の江戸藩邸も全焼しまった状態でのことでした。
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幸い、もう一つ、駒込にあった屋敷がいくらか残っていたので、そこで仮住まいをしながらの開始です。
火事の後でバタバタしてる中、特に危急でもない書物の編纂始めちゃうっていうのは……あれ、KY治って……。
一応の理由としては
「親交のあった学者・林羅山が、自宅も書物も焼けてしまったショックで急死してしまったから」
と言われてますが、藩主の息子というか次期藩主としてこのタイミングはどうなのよ?
そして、江戸がそんな状態では簡単に進められるはずもなく、本腰を入れたのは藩主になってからのことでした。
再建の成った藩邸の中に編纂部署を移し、『彰考館(しょうこうかん)』と名付けられます。
後々ここに所蔵されていた本が、現在水戸市にある【彰考館徳川博物館】へ移されたので、その大元ともいえますね。
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