徳川光圀

徳川光圀/wikipediaより引用

江戸時代

水戸光圀が『大日本史』献上~不正の摘発より濃ゆい黄門様の偉業とは

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漫遊なんてしている暇なし!

少しずつ人数を増やしながら、光圀は大日本史を作り上げていきます。

しかし、それまでの歴史の中で散逸・消失してしまった史料も多かったため、順風満帆とはいかなかったようです。

特に南北朝時代については新しく書き起こさなくてはならないことも多く、一度編纂しなおしたとか。

それでも光圀は隠居した後も編纂を続けました。

既に70歳近くなっており、死期を悟った光圀は存命中に全てを完成させることは無理と判断したのか、本紀(歴代の天皇について書かれた巻)と列伝(皇族と臣下についての巻)だけでも完成させるよう命じます。

その甲斐あって、元禄十三年(1701年)に光圀が亡くなるまでには大日本史の根本に当たる部分はできていました。

光圀死後はお抱え学者などによって編纂が続けられますが、次第に水戸藩の財政を圧迫することにもなります。

そのためか、中心人物がなくなる度に頓挫……もとい、中断してもいます。

だから最終的な完成が明治時代になってしまったんですね。

とはいえ、途中までできた分だけでもたびたび刊行していたようで、水戸藩はもちろん幕末の思想・ひいては討幕運動に大きく影響を与えていくことになります。

 

国粋主義な歴史書が漢文で書かれている

さて、その大日本史ですが……実は漢文で書かれています。

日本の歴史を書くのなら、現代のような書き下し文とはいかなくても、当時一般的だった候文(そうろうぶん・末尾に丁寧に書いていることを現す「候」をつける文体)で書いたほうが目的に適っている気がするのですが……。

形式を真似るだけじゃダメだったんですかね。

中国人向けに書くならまだしも、国内で読ませるためのもので外国語(に近い文)で書いちゃったら、ある程度の教養がある人しか読めません。

もちろん水戸徳川家の人や武士階級の人は読めたでしょうけど、他の人が読めるように、とまでは考えなかったんでしょうか。

光圀としては、歴史を明らかにし広く知らしめるより、水戸藩の教科書にするという目的が大きかったのかもしれません。

「武家に生まれたけどイマドキ戦なんてできないし、だったら歴史書作って名前残したいぜ!」なんてことも言っていたようですし。

知れば知るほどツッコミどころの増えるお方。

それが光圀公ともいえそうです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
常磐神社/公式サイト(→link
水戸光圀/wikipedia

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