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【水戸藩の歴史】
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そうだ、徳川宗春だ! お金を使えば経済も回るゼ!
宗翰の死後、長男の治保(はるもり)が六代藩主となりました。このとき15歳でしたので、父のときよりマシとはいえ、やはり若年と呼ぶべき歳です。
財政悪化や父の時代に頓挫した改革事業、そして天明の大飢饉という最悪のコンボをくらいつつも、治保は地道に頑張ります。
藩士の給料半減(借上げ)や、献上金をした者は郷士として取り立てるようにし、さらに「三人以上子供がいる農民は、稗(ひえ)を支給する」として、人口(働き手)と改革事業のためのお金を確保しました。
稗は今でこそ健康食品扱いですが、当時は米を食べられない貧しい人々の主食。現代でいえば「最低限の食料はタダであげるから働いてね」というお達しが出たような感じです。
当時は貧しさから子供を間引くことも珍しくなかったため、それによってますます田畑が荒れることを防ぐための施策でした。
治保はおそらく、父の失敗の原因を自分なりに調べて、よくよく検討したと思われます。
消費促進、つまり領内にお金を回らせるため、芝居や相撲の興行を藩内で行ったのです。尾張藩七代の徳川宗春と似た考えですね。
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どこかで宗春のアレコレを聞いて「ウチでも、試しにそういうのやってみよう。皆気持ちが明るくなって、よく働くようになるかもしれない」と思ったのでしょうか。宗春のことは、色んな所で語り草になっていそうですしね。
案の定、幕府からはお咎めを受けてしまったので、消費促進策はすぐに取りやめられてしまいましたが。
一方、紙やタバコ、こんにゃくなどの殖産興業による、地道な商業政策は続けられています。
自ら大日本史の編纂に携わった治保さん
治保は、何かをやり始めるときに自ら率先して動くタイプでもありました。
まだ終わっていなかった『大日本史』の作業を学者たちとともに自身の手で行った他、本もいくつか書いています。
こうすることで、藩士に学問を勧めやすくしたのです。そりゃ、お殿様が大人になっても勉強熱心なのに、下がサボるわけにはいきませんものね。
水戸藩では学問が奨励され、政治に学者が関わるようになっていきます。
そして、この流れは幕末まで続きました。
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水戸藩主には代々中国風の諡号がつけられているのですけれども、治保は「文公」とされています。理想的な君主に与えられる、最も好意的な諡号です。
また、「文」を「あや」と読むと、「表面的には見えない、社会や世の中のしくみ」という意味があります。
諡号は大げさに美化したものになることも多いのですけれども、治保の場合はまさにその通りですね。
残念ながら、水戸藩の財政は江戸時代が終わるまで、好転したとはいえません。
しかし、治保が残した学問奨励の気風は、息子で七代藩主の治紀(はるとし)、さらにその子である八代・斉昭の時代に結実し、倒幕の一角を担っていくことになります。
水戸藩の歴史からは、財政再建の難しさと、学問の大切さがじわじわ伝わってきますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
徳川宗翰/wikipedia
徳川治保/wikipedia