宝暦七年(1757年)9月28日は、蘭学者で医師の大槻玄沢が誕生した日です。
なにやら見覚えのあるような、ないような……そんな感覚になってしまうのも仕方ありません。
彼と共に活躍した人物たちのキャラがあまりに濃く、玄沢はどうしてもボヤけがちになってしまいます。
では玄沢とは、一体何をした方で、どんな生涯を送ったのか?
振り返ってましょう。
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大槻玄沢→玄白と良沢から一字ずつ貰って
大槻玄沢は、一関藩(現・岩手県)の医師の家に生まれました。
代々医師をしていた家系で、藩医だった父のもと、玄沢は13歳で建部清庵(たてべせいあん)に師事します。
この建部清庵が、江戸時代の濃いキャラ肖像画No.1の杉田玄白と繋がっていました。

杉田玄白/wikipediaより引用
清庵と玄白の二人は、蘭方医学について意気投合し、文通する間柄だったのです。
そうした繋がりもあって大槻玄沢は22歳のときに江戸へ遊学。
杉田玄白の私塾に入り、玄白からは医学を、『解体新書』の共著者である前野良沢からはオランダ語を学び、着々と学を修めていきました。
師匠たちから、才能や人柄を愛されていた大槻玄沢の「玄沢」とは、この「玄白」と「良沢」から一文字ずつもらった通り名なんですね。
本名は「茂質(しげかた)」になります。
師匠たちの縁で、大槻玄沢は仙台藩の江戸詰め藩医・工藤平助とも知り合いました。
そして、良沢が『玄沢を地元に帰すのは惜しい』と考えていることを知った平助は、一関藩主・田村村隆にかけあい、玄沢の遊学期間延長許可を取り付けてきてくれます。
「なんで、よその藩に口出しできるの?」
そんな感じもあるかもしれませんが、一関藩は仙台藩の親戚が治める支藩のようなものだったので、話が通りやすかったと思われます。
かくして多くの人に見込まれ、さらに学ぶ機会を得た玄沢は、その期待に応えて見識を深めていくのでした。
仙台藩医・江戸詰めとなり、江戸で私塾を開く
天明5年(1785年)。
28歳になった玄沢は長崎への遊学を許可され、オランダ通詞(通訳)の家に下宿しながらオランダ語を磨きました。
そして再び江戸に帰ると、平助の推薦で彼と同じ仙台藩医・江戸詰めを命じられています。
玄沢は非常に感謝し、平助の家(工藤家)と親しく付き合うようになりました。
地元への愛着もあったでしょうが、学ぶとなったらやはり江戸がいいでしょうからね。
新しい治療や薬を使うにも、地方ではなかなか理解されにくかったでしょうし。
こうして江戸に定住することが決まった玄沢は、32歳のときに江戸で私塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開き(天明6年)、後進の育成にも力を注ぎ始めます。
芝蘭堂は当時初となる蘭学塾で、橋本宗吉や稲村三伯、山村才助など才人を輩出。
同時に玄沢は著作活動も積極的に行い、オランダ語の入門書『蘭学階梯』や、師の『解体新書』の改訂なども行っています。
生涯の著作は300冊にもなるといいますから、積極的とかいうレベルじゃないですね。どんだけ仕事してるねん。
それでいて長生きしてるあたりがスゴイんだな……。
玄沢が健康法に関する本を書いていたら、今頃ベストセラーになってたでしょう。
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