古来より、画家や作曲家の強烈なエピソードには事欠きません。
「何がどうしてそうなった」と言いたくなるような人も珍しくなく、今回は、我らニッポンが誇る芸術家の中から、割とトンデモナイ転身を遂げた人のお話です。
安政5年(1858年)9月6日は、江戸時代の画家として有名な歌川広重の命日です。
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ゴミ(五十三次)の広重 ミロ(三十六景)の北斎
有名とはいえ、特に絵に関心がないと、葛飾北斎と間違えてしまうという人も多いのではないでしょうか。
江戸時代の文化史はややこしいので仕方ありません(´・ω・`)
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テストに出そうなところだと、
「東海道五十三次&歌川広重」(ゴミ53の広重)
「富嶽三十六景&葛飾北斎」(ミロ36の北斎)
と覚えるのがいいですかねえ。
あるいは
「橋の絵が広重」
「赤富士と波の絵が北斎」
とか。

東海道五十三次之内 日本橋/wikipediaより引用
もちろん真正面から彼らの生涯を覚えてしまうのもいいかもしれません。
歌川広重というのはいわゆる雅号であって実名ではないのですけれども、例によって有名なほうで統一させていただきますね。
12才で火消し 父が亡くなり絵画の世界へ
歌川広重は、江戸の火消し役人の家に生まれました。
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父親が早くに隠居したため、12歳のときに広重が跡を継いでいます。
その年のうちに父が亡くなると、広重はかねてから興味があった絵を学びたくなり、歌川派の祖・歌川豊春に弟子入りしようとします。
この辺から常人とはかけ離れた芸術家の思考回路が垣間見えますね。
しかし「ウチは今満員だから、弟子のところへいってくれい」と言われてしまったので、その通りに豊春の弟子・歌川豊広のところで絵を習い始めました。
今では広重が有名すぎて他の人はあまり知られていませんけれど、この三人の絵を見比べてみると「ああ、師弟だなあ」という感じがしますよ。

歌川豊春「浮絵和国景跡京都三拾三軒堂之図」/wikipediaより引用

歌川豊広「江戸八景」のうち「佃島帰帆」/wikipediaより引用
広重はしばらくの間、仕事と画業、二足のわらじを履いていました。
そして23歳のとき正式に役人を辞め、絵の道で生きていくことを決意します。
当時の身分制度やら社会風習からすると、結構アグレッシブというかなんというか。
ちなみに、家督については親戚に譲っているので、その辺は丸く収まったようです。皆さんよく納得してくれたものですね。
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