ライターや作家にとって最も憧れる言葉の一つです。
「夢の」なんて枕詞がお友達状態になっている通り、現実はそううまくいかないわけですが、そんな憧れを日本で初めてした作家は江戸時代のあの人かもしれません。
嘉永元年(1848年)11月6日、曲亭馬琴こと滝沢興邦(おきくに)が亡くなりました。
『南総里見八犬伝』の作者として知られますよね。
「滝沢馬琴」というのは、明治時代あたりに、ペンネームと本名がごっちゃになってしまったときの呼び名だそうです。
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若いころは絵に描いたような放蕩息子の滝沢馬琴
この馬琴さん。印税生活ができるくらいだから、さぞかし小さい頃から優秀だったに違いない……と思いきや、若い頃は絵に描いたような放蕩息子だったとか。
頭が良いのは事実だとしても、それを鼻にかけていたため周りとそりが合わず、どこへ奉公しても長続きしなかったそうです。
当然そんなことをしていれば家族からの目も冷たくなります。
さすがに後ろめたかったのか、あちこちへ放浪しており、母親が危篤に陥ったときにも連絡先がわからないという有様でした。
お兄さん達が必死に探して何とか死に目には会えたそうなのですが……。
その後は心を入れ替えたのか。
本当にやりたいことが見つかったのか。
24歳のとき、劇作家・山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りしようとします。
しかし、京伝はこのころ既に弟子を取るのをやめてしまっており、具体的に教わることはできませんでした。
代わりに、家に出入りして付き合うことだけは許してもらえたとのことで。それは弟子と何が違うのか?と小一時間。
おそらく京伝の著作や他の書物を読ませてもらっていたのでしょう。
デビュー作は黄表紙(マンガ)だった
25歳のとき、馬琴は初めて自分の本を出します。
「黄表紙」と呼ばれる大人向けの絵本で、ふきだしがあったり、細かい言葉遊びがあったり、現在のマンガに繋がるものでした。
「マンガなんぞ子供の読むものだ!」なんて人は最近減ったようで、日本人の好みは昔からちっとも変わってないんですね。
しかしこの頃、心情的にはお師匠様にあたる京伝が謹慎処分になってしまいます。
江戸の三大改革【寛政の改革】のとばっちり。
京伝の書いていた本が「幕府をおちょくっている!けしからん!」としてザ・石頭の松平定信にお咎めを食らってしまったのです。
当時は「儒学最高!下々はお上に逆らうどころか疑うのもダメ!」という時代ですから仕方ないですね。
馬琴もこの影響を受け、一度、作家業から離れて履物商の未亡人に婿入りします。
が、婿に入った先の名字を名乗らず、商売も手伝わなかったというので、本当に生活を安定させるためだけだったようです。
それでいて奥さんとの仲はそう悪くもなかったようで、結婚の翌年には女の子が生まれ、最終的には一男三女に恵まれました。
婿入りの上、家業手伝わないのに奥さんと仲良しとか、どういうことだってばよ。
しばらくしてからまた黄表紙本などの執筆もしていますし、よほど心の広い奥さんだったんでしょうか。
馬琴より奥さんのほうが年上だったので、引け目があったのかもしれませんが。
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