平賀源内

右が木村黙老著『戯作者考補遺』に掲載され、左が中丸精十郎の描いた平賀源内/wikipediaより引用

江戸時代

自由で多才も最期は獄死~エレキテルの平賀源内はどんな人だった?

江戸時代、自由すぎる生涯を送った人がいました。

安永八年(1780年)12月18日に獄死した平賀源内です。

エレキテルを発明した――ということで知られたりしますが、これはちょっと語弊があり、正確には発明ではなく改修になります。

どういうことか?

彼の生涯とあわせて見てみましょう。

 


信濃→奥州伊達家→宇和島藩→高松藩へ

平賀源内の名は、日本史の教科書以外でもよく見かけますよね。

漫画『大奥』(→amazon)でも数回に渡って登場していましたし、某菓子パンヒーローのキャラクターの元ネタになったこともあるので、昔の学者さんとしては比較的よく知られたほうではないでしょうか。

学者(本草学)のほかにも戯作者や画家、今で言うイベントプロデューサーなどの仕事もこなしています。

こう書くとホントはどんな人物なのかよくわからなくなってきますが、調べるとさらに「(´・ω・`)?」な印象を覚える人でもあります。

源内の父は白石茂左衛門良房といい、その祖先は南朝の忠臣・平賀国綱と伝わります。

源内自身は享保13年(1728年)の生まれ。

父が没した寛延2年(1749年)に跡を継いで高松藩に勤め、このころから「平賀」の姓を名乗るようになりました。

順調に行けば、そのまま高松藩士の一人として生涯を送っていたのでしょう。

しかし彼の場合、並外れた頭脳がその道に疑念を抱かせたようです。

 


頭脳明晰で行動力バツグン

13歳で本草学(植物を中心とした医薬)を学び始め、自然科学などさまざまな分野に興味を持った平賀源内。

一度は藩に仕えながら「一生学問をやっていきたい」という気持ちが強くなります。

長崎へ遊学し、オランダ語など西洋の学問や文化に触れてからは、もう武士でいるつもりがなかったのかもしれません。

妹に婿養子を取らせて後を継がせるというなかなか強引な手段で家の始末をつけ、自分は身一つで大阪・京都・江戸を渡り歩いて知識を深めていきます。

本草学では田村藍水(らんすい)を師匠として。

儒学では林家に入門して。

ここまでなら、ちょっと行動力のある学者というところです。

源内の場合、ここからさらに実用的なことをいろいろやり始め、行動力もレベルアップしていきました。

もう一度長崎に行き、鉱山開発や精錬技術などを学んだ後、幕府の御用で伊豆に赴き、硝石や黄ミョウバンなどを採掘、実用化するための工夫を重ねたのです。

硝石は火薬や薬の原料、ミョウバンは染色剤や防水剤に使うものなのですが、当時これらの鉱物は国内であまり見つかっておらず、ほとんどを輸入でまかなっている状態でした。

そのため幕府は相当額のお金をこれらに費やしており、財政が圧迫されていたのをなんとかしようという狙いだったようです(ただしさほどの効果はあがらず)。

 

杉田玄白にイラストレーターを紹介

平賀源内は【物産会(ぶっさんかい)】や【薬品会(やくひんかい)】も好んで開催しました。

現代ではデパートでよく開催される「物産展」の源流ですね。

全国から動植物や鉱物などを集めて展示。

彼自身の本草学研究にも役立てるためで、各地の珍しい自然物を集め、例えば宝暦12年(1762年)の第五回物産会では実に1300種以上もの出品がありました。

物産会や薬品会には医師なども参加するので、そうした経緯から、源内は『解体新書』でお馴染みの杉田玄白とも知り合いになっています。

当時はまだ杉田玄白が『解体新書』を刊行しておらず、本に載せるイラストの描き手を探しているところでした。

あの本って、やけにリアルな人体(骸骨)が掲載されていますよね。

解体新書/wikipediaより引用

立体感のある挿絵は、従来の日本画と一線を画するもの。

一体どうやって描き手を探したのか?

というと、源内が小田野直武という絵師を紹介したのです。

実は源内は、自身も長崎などで西洋画を学んでいて、秋田に出向いたとき小田野を知り、その手法を伝えていたのです。

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上記の記事にもありますように、その手法は絵画好きの秋田藩主・佐竹義敦にも伝わり、「秋田蘭画」として世に出ます。

以下のような図式になりますね。

平賀源内

小田野直武

佐竹義敦

まさに多才な源内だからこその繋がりでした。

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