桂昌院

桂昌院(お玉)/wikipediaより引用

江戸時代

五代将軍綱吉の母・桂昌院が八百屋の娘というのは本当か?大奥竜雷太

“犬公方”という悪意ある異名を残された徳川綱吉

実はその生母も、存命当時から出自ゆえに貶められてきました。

徳川家光の側室であり、将軍の母として脚光を浴びるはずのシンデレラガールでありながら、

「犬公方のおふくろなんざ、しょせんは八百屋の娘だろ」

と、さんざん悪く言われてきたのです。

彼女はしばしば“八百屋の娘”として罵詈雑言が浴びせられ、綱吉悪政の責任者として扱われます。

一体この話はどこまで真実なのか?

宝永2年(1705年)6月22日が命日である、桂昌院の生涯を振り返ってみましょう。

 

尾張の姫が おらばなるまい

徳川綱吉の生母である桂昌院。

彼女は、いつ何処で、誰の子として生まれたのか?

その出自にはいくつかの説があり、まず幕府の公式史書である『徳川実紀』では

関白・二条光平の家司である「北小路(本庄)太郎兵衛宗正の娘」

とされています。

表向きは、一定の家柄に仕えていた人物となっているんですね。

しかし、こうした記述は、例えば養女にするなどの後付けでどうにでもなるものです。

それゆえ当時から「もっと卑しい身分であろう」という噂が囁かれ、後に桂昌院が「従一位」という、女性にとって最高の位階を得ると、こんな落首が流れされました。

西陣の 折屋の女 一位職 尾張の姫が おらばなるまい

尾張の姫とは、徳川家光の長女で尾張藩主・徳川光友の御簾中となった千代姫のことです。

もしも千代姫が存命だったら、お玉のような身分の低い女に高い位は巡ってこないだろう――そう皮肉った歌でした。

千代姫
家光に溺愛された長女・千代姫が尾張徳川家に嫁いだ切実な理由とは

続きを見る

官位と位階
モヤッとする位階と官位の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?

続きを見る

 

大奥はコネがなければ入れない

桂昌院の出自をめぐる噂は、他にもいくつか流されました。

母が高麗人だとか。

御湯殿女中の出身だとか。

大根売りの娘だとか。

あるいは、かつて豊臣秀保(秀吉の甥)に仕え、その後は食い詰めた浪人になっていた樫田太郎兵衛の娘とか。

その中でまことしやかに流されていたのが“八百屋の娘”であり、国史大辞典でも「実父は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門」と記される程ですが、一つ考えたいことがあります。

大奥へ入る条件」です。

大奥といえば、いかにも世間で噂になるような美女が集うイメージもおありかもしれませんが、最も重視されたのは人脈、要はコネです。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-江戸時代
-

×