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【桂昌院】
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お万の方に仕え 家光の四男を産む
大奥のシステムは、男児に恵まれなかった家光時代に始まったとされます。
乳母である春日局は、その状況にほとほと困り果て、
「世継ぎができぬとなれば、権現様にどう申し開きをなされるのですか!」
と強く迫り、お振の方を側室に迎え、寛永14年(1637年)、ようやく子供に恵まれます。
しかし生まれてきたのは女児の千代姫でした。
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家光は、幼い娘をあやすため大奥へ足を運びはするものの、お振の方にはそっけない態度のまま。
そんな家光の心を開き、女性への愛に目覚めさせたのがお万の方(永光院)です。
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寛永16年(1639年)、家光は二十歳年下のうら若い尼僧であった彼女に目を留め、側室としましたが、残念ながら子宝には恵まれませんでした。
お万の方が上級公卿の出身であり、彼女が将軍の母になると外戚に権勢を振るわれて困るため、堕胎させられたという説もあります。
ともかく子は生まれていません。
お玉(桂昌院)は、そんなお万の方が側室となった寛永16年(1639年)に部屋子として仕えるようになりました。
お玉は「秋野」という名を与えられると春日局の指導を受け、将軍付き御中臈にまでのぼりつめるのです。
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そして正保3年(1646年)1月8日、彼女は家光の四男・徳松を産みました。
将軍の子の幼名は、嫡男ですと家康由来の「竹千代」がつけられ、それ以下は「松」の字がつきます。
家光の側室には、お玉の他にも似た境遇の女性が複数いて、男児を産んだ者はざっとこれだけいます。
元々の身分では、そう大差が無かったであろう彼女らにとって、立身出世は我が子の成長にかかっています。
一歩先んじたのが「竹千代」を産んだお楽。
家光の死後、四代将軍は竹千代が徳川家綱として就任します。
お玉は、夫の死を機に、落飾して桂昌院となりました。彼女の人生は、ここからが真の表舞台とも言えましょう。
四男の綱吉が将軍に
徳川家光の死により、四代将軍となった徳川家綱。
しかし家綱もまた子供には恵まれない将軍でした。
跡継ぎが続かなければ、その弟たちである徳川綱重と徳川綱吉に将軍の座が回ってくる可能性は高まります。
実際、この二人は、年齢が一歳半しか離れておらず、生まれた時からライバルのような存在でした。
◆綱重と綱吉の生誕
徳川綱重:正保元年(1644年)5月24日
徳川綱吉:正保3年(1646年)1月8日
※徳川家綱は寛永18年(1641年)8月3日
しかし綱重は、家光が41歳の時に生まれた子であり、不吉とされていました。
その影響ではないでしょうが、綱重は延宝6年(1678年)に35歳という若さで亡くなってしまいます。
さらに2年後の延宝8年(1680年)になると、結局、家綱は子を残さぬまま没し、かくして家光の四男だった徳川綱吉に将軍の座がめぐってくるのです。
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もともと身分は高くなく、側室の中の一人に過ぎなかった桂昌院。
その息子である綱吉は、兄二人が亡くなり、将軍の家綱には子がなく、将軍職が転がり込んできた。
そんな偶然が重なって将軍の生母になったため、桂昌院は、嫉妬や憎悪の目を向けられ「大根売りの娘のくせに」と噂されてしまったのでしょう。
前述の通り、彼女は最終的に女性として最高位の従一位となり、宝永2年(1705年)に79歳で天寿を全うします。
経歴だけ見ればまばゆいのに、その評価は低い。
大奥作品においても、お玉(桂昌院)は大事に扱われません。
家光の心を開く運命のヒロインは、彼女が仕えていたお万の方(永光院)が務めます。
桂昌院の描かれ方は、綱吉を溺愛して堕落させ、身分が低く教養がない、迷信深い愚かな母――悪役としてドラマに登場することすらありました。
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