葛飾北斎

82才の頃に描いた自画像/wikipediaより引用

江戸時代

葛飾北斎のケタ外れな才能と引越し93回 弟子は200人で作品数は3万点

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葛飾北斎
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医師・シーボルトが土壇場になって「お金半分でいい?」

一つは、長崎のオランダ商館長から「日本人男女の一生を二巻に分けて描いてほしい」と頼まれたときのことです。

当時この商館に所属していた医師・シーボルトも同じものを依頼してきたので、北斎は注文通り二人分描いていきました。

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が、館長はきちんと依頼時の金額を払ったものの、シーボルトは「給料が少ないので半額でいいか」と言ってきたのです。

天下の北斎をどんだけナメてんだよと言いたくなりますね。

もちろん北斎も怒り「半額がダメなら一巻だけ買う」と言われても譲らず、二巻とも売らずに帰ってきてしまいました。

奥さんには「外国人向けに描いたものだから、日本人には売れないでしょう。損は損だけれど、売らなければまた貧乏してしまいますよ」と怒られます。そりゃそうだ。

しかし北斎は、こう答えたのです。

北斎は答えました。

「“日本人は人を見て値段を変える”と外国人に思われたらどうする」

まだほとんどの人が外国の目など意識していなかった時代に、そういう視点があったことはスゴイですよね。奥さんと子供にとってはいい迷惑ですけども。

葛飾北斎自画像/wikipediaより引用

その後、商館長にこの話が伝わり、シーボルトの分も無事に当初の金額で買い取ってくれて、この件は丸く収まりました。

いい気分にはならなかったでしょうけど、このときのお詫びか、あるいは絵を気に入ってか、オランダ商館から年に数百枚の絵が注文されるようになり、本国オランダへも輸出されるようになりました。

ゴッホたち西洋画家やヨーロッパでジャポニズム(日本趣味)が流行ったのも、こうした下地があったからかもしれません。

黒船が来るのは北斎が亡くなってから4年後のことで、日本の様子が広まるようになるのもその後ですから、当時は「知る人ぞ知る」という扱いだったでしょう。

ただ、そのきっかけがシーボルトの値切りかと思うと……。

 

ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川

他にも偉い人や有名人とのトラブルは絶えなかったようです。

唯一の例外が十一代将軍・徳川家斉ですかね。このときはさすがの北斎も喜んでいたようです。

鷹狩り」の帰りにとある寺で休息するついでに、何人かの名画家を呼んで目の前で絵を描かせるという趣向。

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北斎は、こんな行動に出ました。

まず普通に山水・花・鳥を描いた後、細長い紙を刷毛で藍色に塗るという珍妙なことをします。

皆が何をするのかと思って見守っていると、籠に入れてきた鶏の足の裏に朱色を塗ってその紙の上を歩かせました。

そして藍色の上に朱色の足跡ができた部分を指し、「竜田川でございます」と言っただけで一礼し退出――。

竜田川というのは奈良県にある古来からの紅葉の名所で、数々の和歌にも詠まれている有名なところです。

百人一首十七番
「ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」

こちらでご存知の方もおられるかもしれません。

家斉含め、「絵は筆で描くもの」という概念にとらわれない趣向に感嘆したといわれています。

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娘もやばし!夫よりも才能に優れて離縁となる

さて、この奇人っぷりと画才を最も受け継いだのが、娘の応為(おうい)です。

彼女は一度とある画家に嫁ぎ、

「夫よりも才能に優れていたせいでケンカして離縁」

という父の遺伝子の受け継ぎっぷりがよくわかる経緯で実家に戻っていました。

残っている作品数は北斎よりもずっと少ないのですが、応為の絵は日本画にはあまりない「光」の概念を取り入れたり、他にない作品を生み出したあたりに父の影響がうかがえます。

この親子の作品はたまに海外のマニアのところから見つかったりするので、これからもまた新しいものが出てくるかもしれませんね。

個人的には北斎の「月見る虎図」という絵が好きです。

その名の通り満月を見上げる虎の絵なのですが、寂しそうな羨ましそうな、そんな絶妙な顔をしています。

『月見る虎図』/wikipediaより引用

時代が前後しますが、中島敦の「山月記」の李徴がこんな感じじゃないかなあと思えるような絵ですよ。

親子揃って奇行も多いですけれど、それでも認めさせるだけの実力があったからこそ親子共に仕事が絶えなかったのでしょうね。

だからといってフツーの凡人が奇行だけ真似しても才能は身につきませんので、猿真似ダメゼッタイ。

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【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
葛飾北斎/Wikipedia
葛飾応為/Wikipedia

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