最近あまり聞かなくなってきた「クール・ジャパン」って違和感ありません?
日本の文化を大事にするなら、そもそも標語も日本語にしたほうがソレっぽい気がします。
ローマ字表記と英語のキャプションをつければ、海外の方にも通じるでしょう。
今回は海外の方にも「純和製」として推せそうな、日本独自の技法で作られた、とあるモノに注目。
元禄8年(1695年)7月15日は、僧侶・円空が亡くなった日です。
もしかしたらご本人の名前より、作ったモノ(一刀彫)のほうが有名かもしれませんね。
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一本の刃物で削ったり刻んだりする一刀彫!
円空は、寛永九年(1632年)に美濃で生まれたといわれています。
身分ある家の生まれではなかったようで、幼いうちに出家したと思われますが、詳しい時期は不明。
一説には、地元を流れる長良川の水害で母を亡くしたのがきっかけだ……とも。
長良川は地理でもお馴染みの「木曽三川」のひとつですが、その中でも歴史に残る人物の逸話が多いような気がしますね。
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話を戻しましょう。
円空の名がはっきり残ったのは、独特な作風による仏像の作者だから、という点が大きいと思われます。
いわゆる「一刀彫」と呼ばれるスタイルで、他の仏像にはない作風。
文字通り、一本の刃物で削ったり刻んだりする彫刻をこう呼びます。
しかし、円空の手がけた仏像は、そうとは思えないほど精緻な細工がされていることが珍しくありません。
それがいつしか評判となり、あちこちで造像を行うようになり、寛文六年(1666年)には弘前藩を追われて蝦夷に行ったといわれていますので、この頃は東北諸国を巡りながら仏像を作り、対価を得て暮らしていたのでしょうか。
作品に刻まれた銘からすると、寛文九年(1669年)頃には尾張・美濃に戻っていたようですけれども。
切れ端のような木材からも刻み続けて12万体
その後は大和や近江にも足跡を残しつつ、関東で読経したという記録もあるため、どこかのお寺に腰を落ち着けるのではなく、生涯「旅の僧侶」としての生活を選んだようです。
残されている仏像には四国のお寺に献じられたものもあり、活動範囲の広さがうかがえます。
亡くなったのは64歳の頃。
生涯で12万体の仏像を彫ると祈願していたそうですが、それだと仮に30年間の活動期間でも年間4,000体になりますから、一日で10体以上で、さすがに無理がありますね。
ただ、現存するだけでも5000体以上あり、円空が凄まじい集中力の持ち主だったことは間違いないでしょう。
円空は綺麗に整えられた木材だけでなく、木の切れ端のようなものでも仏様の姿を刻んだので、材料にこだわらなければ旅の途中でも作りやすかったはずですし、
現在残っているのは全国で5800体弱で、そのうち岐阜県に1000体ほどあります。
さらに、名古屋市中川区の荒子観音寺には1255体残っており、岐阜県・愛知県だけで円空作の仏像の半分が存在していることになります。
この辺からも、円空の故郷が美濃であった可能性は高いと直感できることでしょう。
荒子観音寺の円空仏は、毎月第2土曜日の午後1時から4時まで公開だそうで。
ここは前田利家の生地にも近く、ゆかりある場所ですので、利家ファンの方は併せて訪れるのもいいかもしれません。
その一方で、最近では円空の仏像も盗難の被害に遭い、何年も行方不明になっているものが多数あるといいます。
罰当たりな話ですね。
こちらの『円空連合ホームページ(→link)』さんの「重要なお知らせ」というページに写真が載っているので、もし心当たりのある方は連絡してみてはいかがでしょうか。
さて、円空の作ったような「一刀彫」という種類の彫り細工は他にもあります。
ついでに有名どころを一部だけ紹介させていただきましょう。
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