島原の乱

「島原御陣図」/wikipediaより引用

江戸時代

最後の戦国「島原の乱」を制した知恵伊豆がエグい~板倉重昌は無謀な突撃で討死

2024/10/23

寛永14年(1637年)10月25日、島原南部で農民たちが代官を殺害して蜂起し、島原の乱が始まりました。

この動きに対し、江戸幕府が譜代大名・板倉重昌に命じて江戸を出立させたのは、同年11月9日のことですから約2週間で一報を聞き、準備を整えたんですね。

教科書では「キリスト教徒が反乱した」ことになっています。

確かにこの頃のキリスト教は江戸幕府によって禁じられていましたので、宗教戦争という見方もあります。

しかし、この反乱にはいくつかの思惑が絡み合っていて、単純に信徒だけの蜂起とも言えません。

戦乱期の様相もいささか残した“最後の戦国”とでも申しましょうか。

一連の流れを振り返ります。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

 


島原の乱=(農民+キリシタン+浪人)×天草四郎

島原の乱の原因、その一つは重税に耐えかねた農民の反乱という側面がありました。

江戸時代は、飢饉や災害の多かった時代。

それは島原のある九州も同じでした。

特に寛永11年(1634年)から数年に渡る凶作は酷いもので、そこに藩からの重税が課せられたのですから、民衆が耐え切れなくなるのは時間の問題でした。

『どうせ死ぬなら一矢報いてやろう!』

そんな農民達がキリスト教徒と合流し、あれよあれよと37,000人(約27,000人とも)もの民衆が集まってしまうのだから大変です。

当初の幕府は「素人ばかりの挙兵なんて武士の鎮圧軍を派遣すればスグにカタがつく」と思っていたようですが、この乱は勃発から鎮定までに丸4ヶ月もかかっています。

いったいなぜ?

反乱軍が立て籠もった原城跡

理由は、江戸幕府の抱えていたもう一つの問題にありました。

関ヶ原の戦いと大坂の陣――これまでに二つの大きな戦いがあり、巷に浪人(主君に仕えていない武士)が溢れかえっていたのです。

働き口を見つけたくても、大名家のお財布事情が苦しく、なかなか雇い入れてもらえない状況。

こうした浪人達が「野垂れ死ぬくらいなら、最期に一花咲かせてやんぜ!!(でもって運よくお殿様に腕を認めてもらえたらラッキー)」という考えで、反乱に加わったのでした。

今はプー太郎でも元々は武士ですから、武器の扱いも合戦のやり方も知っています。

戦闘経験豊富な浪人が加わってしまったことにより、単なる一揆では済まなくなってしまったのです。

「死なば諸共」

「死に花上等」

「デウス(当時キリスト教の神様をこう呼んでました)の加護あれ!」

こんな集団に、カリスマ的存在の少年・天草四郎(益田時貞)がリーダーとして加わってしまったものですから、とても地元の大名だけでは抑えきれなくなってしまいます。

島原城内の天草四郎像

 


1.5万石では何十万石の大名を動かせず

乱が起きたのは10月末。

江戸に知らせが届いたのは11月上旬。

大坂の陣から20年が経ち、歴戦の武将達が軒並み死去・引退していた幕府は大慌てとなりました。

「とりあえず真面目でフットワーク軽いヤツ行ってこい!」

かくして選ばれたのが板倉重昌でした。

派手な戦功こそないものの、徳川家への忠誠心では誰にも引けを取らず、咄嗟の機転も利く――自他共に適任と考えていたのかもしれません。

板倉重昌/wikipediaより引用

しかし、何と言っても1万5000石しかない小大名です。

九州に着いてみると、そのせいで思わぬ大苦戦を強いられてしまいます。

地元の大名達と共に反乱軍の立てこもる原城を度々取り囲んでも、全く効果が出ない。

それもそのはず、九州は関ヶ原や大阪の陣、そしてその後の改易・転封などで土地に不慣れな大名ばかりで、兵の忠誠心や統率も取れていなかったのです。

悪く言えば烏合の衆ですし、重昌の領地が少ないものだから、誰も積極的に従おうとしてくれません。

ちなみに、こんな小者じゃ、とても九州の海千山千の大名たちを指揮できないと、あわてて東海道を追いかけた(でも追いつけなかった)のが、あの柳生十兵衛のお父さんの柳生宗矩です。

一方、反乱軍は、美少年(真偽は不明)のリーダーがいる上、宗教やら重税の恨みやら、とにかく後がない状態ですから、戦意も団結力も極めて高い。

幕府軍は実に10万を超える部隊だったものの、板倉重昌も指導力を発揮できず、なかなか決着をつけられない状況でした。

蜂起した信者が切り落としたという地蔵/wikipediaより引用

 

知恵伊豆なら周りも言うこと聞くべ

思わぬ苦戦ぶりを知らされた幕府。

「ならば、次はもうちょっとエラい奴を行かせよう。そしたら皆言うこと聞くだろ」

そう考え、老中・松平信綱を差し向けました。

この人は頭が良すぎて「アイツと知恵比べしても勝ち目ねーよ。だって化け物だもん」と言われるほどのキレ者。

好き嫌いが激しい徳川家光でさえ「オレには、酒井忠勝と松平信綱がいるから、歴代の征夷大将軍でも一番幸せモンだな!」なんて頼りきっている重臣です。

NHKの歴史番組『知恵泉』も、「知恵伊豆」という彼のあだ名からきているんですね(信綱は伊豆守だった)。

しかし、九州で信綱が来ることを知った重昌はビックリ仰天。

ハッキリ言われたわけでなくても、幕府ナンバー2の役職である老中の一人が江戸から遠く離れた九州へ出向いてくるなんて、自分の無力さを咎められているも同然ですからね。

しかも信綱は重昌よりも年下ですから、このままでは年長者としての面子が潰れてしまいます。

グズグズしていたら、手柄は全て信綱のものになる上、お咎めを受けるかもしれません。こうなったら……。

 


進退窮まり 新年早々自ら突撃

進退窮まった重昌。

「お天道様も照覧あれ!!」と言わんばかりに、新年早々自ら原城へ突撃を決めてしまいます。

男らしいにも程があるだろ。

これで一気に城を落とすことができたら、歴史に名を刻むことができるだろう……けれど……。

あえなく討死となってしまいます。

板倉重昌の男気も、士気MAXの反乱軍には通用しませんでした。

重昌の辞世

新玉あらたまの 歳に任せて 散る花の 名のみ残して 先駆けと知れ

このとき板倉だけでなく幕府側の兵も相当な死者数になっており、戦術と士気がどれだけ大切かわかりますね。

巻き込まれた将兵は可哀想で……。

幸い、信綱が1月4日に到着したため、残された幕府軍が完全に瓦解することはありませんでした。

もっと遅れていたら、乱がさらに長引いていたかもしれませんね。

 

徹底した兵糧攻め

信綱は戦の経緯を聞き、根本から戦略を変えるべきだと考えました。

戦は大軍であればあるほど有利と思いがちですが、決定的な弱点も生まれます。

兵糧の確保と調達です。

ことに篭城戦の場合は、協力してくれる水軍や周辺勢力の存在は不可欠であります。

ならば、かつての織田 信長vs本願寺 顕如の石山本願寺や、豊臣 秀吉vs吉川 経家の鳥取城で行われたような兵糧攻めが最適でした。

特に秀吉の兵糧攻めはエゲツなかったことで知られ、以下に詳細記事がありますので、よろしければ併せてご覧ください。

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信綱も、城内の兵糧が決して潤沢でないことを確認。

となればやることは一つ。

徹底した兵糧攻めですね。

いくら士気が高くても、飢えては戦ができません。

幸い原城は幕府軍が陸海両方から取り囲める程度の城でしたから、外部との連携を絶つのは簡単でした。そしてその結果は?

 

敵兵の遺体を解剖し胃の中を見る

たちまち食料に困り始めた反乱軍。

断崖絶壁を這い下りて海藻を取りに行かなければならないほど飢えていたといいます。

原城址の石垣

そして兵糧攻めを始めて一月半ほど経った頃、耐え切れなくなった反乱軍の一部が「食い物と武器をよこせ!!」と幕府軍へ襲い掛かってきました。

しかし食料難で力の衰えた素人など、大名家の相手ではありません。

勝利を収めた信綱は、反乱軍の兵の遺体を解剖させました。

もちろん、医学のためでありません。

腹の中を見ることによって、城内でどんな食事をしているのか調べたのです。

この話はこのときくらいしか出てこないんですが、もしかして信綱の発想だったんですかね。だとしたらホントに恐ろしい人だ。

予想通り、腹の中はほぼ空っぽでした。

「今こそ好機!」

そう判断した信綱は、さっそく全軍に総攻撃を命じます。

空腹の反乱軍など、もはや敵ではありません。

原城阯本丸に設置された十字架

信綱が着陣しておよそ2ヶ月。

寛永十五年(1638年)2月28日に島原の乱はようやく治まったのでした。

しかし、不思議なのは、この戦いに参加した武将たちなのです。

戦国時代に名を轟かせた方たちも混ざっていたのですが、なぜ、ここまでグダグダになったのか……。

最後に、この戦いに加わった主な大名や武士を見ておきましょう。

 

武蔵、細川、宗茂の豪華ラインナップ

まずは何といっても宮本武蔵。

彼は養子が九州・小倉の小笠原家に仕えていたため、その縁で島原の乱に幕府側で参戦していました。

このときの働きが元で、熊本藩の細川家に客分として招かれています。

細川家からは、戦慄の愛妻家・細川忠興……ではなくその後を継いだ細川忠利が来ておりました。

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忠興は存命中でしたが、関ヶ原の後くらいから眼病になっていたので、とても戦に出られる状態ではなかったんですね。

年齢も70半ばでした。

ところがどっこい、ほぼ同年代の立花宗茂(※70歳)は、ばっちり参戦しています。

戦国最強として、本多忠勝と共に讃えられた武将ですね。

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諸大名からも「キャー武神様の再来よー!!」(ただし野太い声)と絶賛されていたとかで、生涯現役とはまさに彼のことでしょう。

ちなみに亡くなったのは、この5年後のことです。

宗茂と同い年だった伊達政宗は島原の乱勃発の前年に亡くなっていました。

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もし生きていたら、参戦していたような気がしてなりません。いや、九州は遠いからさすがに無理かな……。

それと、忠勝や宗茂と並ぶような勇将の水野勝成も参加しています。

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まさに戦国期の最終仕上げといった内戦。

結局、この戦いは内乱の鎮圧だったため、諸将への褒美はほとんどありません。

ただし、これを機に幕府は一層キリスト教徒や謀反に対する締め付けを強め、誰も逆らおうとはしなくなります。

ある意味、島原の乱は江戸幕府の権力を決定付けた戦いでもありました。

なお、知恵伊豆こと松平信綱の生涯については、以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。

やはり幼い頃からスペシャルな頭脳をお持ちの方でした。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説


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【参考】
国史大辞典
日本大百科全書
島原の乱/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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