寛永二十年(1643年)1月8日は、熊本藩の三代藩主・細川綱利(つなとし)が誕生した日です。
跡継ぎ問題やら財政困難で「江戸時代の大名も大変だ」という話は度々しておりますが、この人もなかなかに苦労をしています。
曽祖父は細川忠興ですので、『麒麟がくる』でもお馴染みの細川藤孝(綱利から見て高祖父)の血筋を引いてるんですけどね。
細川藤孝
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細川忠興(奥さんが細川ガラシャこと明智たま)
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細川忠利
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細川光尚(みつなお)
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細川綱利
そんな綱利は、一体どんな苦労を背負ったのか。
生涯を振り返ってみましょう。
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6歳で大藩を継いだ細川綱利
綱利は6歳のときに父の細川光尚を若くして亡くしてしまいました。
光尚が生前に「我が息子は幼少ですので、領地を返上しても構いません」と語っていたことから、あわや改易ともなりかけたのですが、幕府内でもどうするべきか意見が割れました。
熊本藩はなんせ50万石を超える大藩です。
これを取り潰したとして、その後に誰を据えるか。
ここはかつて加藤清正の加藤家が取り潰されてから細川家が入っており、頻繁に藩主を変えてしまうと領民がなつきません。
清正(と小西行長)が熊本入りする前は【肥後国人一揆】が起き、佐々成政が大変な目にも遭ってますしね。
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そういった諸々の理由に加え、細川家の普段の行いが良かったこと、細川家の家臣たちが「何卒改易だけはご勘弁ください※でないと私ら野垂れ死ぬので(´;ω;`)」(※イメージです)と嘆願したことが考慮され、「そのまま細川家でおk」(超訳)ということになりました。
もちろん幼い綱利を補佐するため、実質的な藩政はしばらく家臣や親戚が行っています。
奥さんは御三家・水戸藩から初代頼房の娘をもらう
10歳のときには四代将軍・徳川家綱から偏諱を受けて「綱利」と名乗り始めます。
四代将軍・徳川家綱を地味将軍と言うなかれ 実は好感度エピソード満載な人だった
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が、名実ともに藩政を担い始めたのはもっと後のことでしょうね。
19歳のときに弟・利重に5000石ほど領地を分けていますので、おそらくこのあたりから自分の意見を反映できるようになってきたのではないでしょうか。
御三家の一つ・水戸家から正室をもらったのは二十歳のことでした。
お相手は初代・徳川頼房の娘ですから、結構なVIP待遇というか何というか。
後に綱利は7~8人ほど子供に恵まれたのですけれども、男子が成人する前に亡くなってしまい、跡継ぎとして甥っ子を養子にすることになります。
養子を決めたのは60代に入ってからなんですけどね。ギリギリすぎるような気がしますが、側室もしくは妾相手に頑張ってたのかもしれません。
23歳のときには、支藩として肥後新田藩という藩を作り、利重にこれを任せます。
肥後新田藩は定府大名(参勤交代せず江戸に定住する大名)とし、以後、利重は対幕府の外交官役を果たしていくことになりました。
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この辺の外交センスはさすが名門・細川家というスマートさですね。
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