細川綱利

細川綱利/wikipediaより引用

江戸時代

さすが名門!細川綱利はあの藤孝の玄孫~三代目熊本藩主の功績とは

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水前寺成趣園を作ったのも綱利だった

いつ頃のことかはっきりしないのですが……。

熊本藩主・忠利のお気に入りだった場所に、現在の【水前寺成趣園】を作ったのも綱利です。

水前寺成趣園

後々かなり質素な庭園に作り変えられていますが、現在の姿からも趣味の良さが感じられますね。

園内には代々の細川家当主が祀られている出水(いみず)神社があり、ご訪問されたい方は公式サイト(→link)をご参照ください。

下には一応グーグルマップを。

神前結婚式が挙げられるそうなので、細川家ファンの方はこちらでお願いするのもいいかもしれません。

その他、明治時代に熊本洋学校(全て英語で授業を行うというスパルタ教育にも程がある学校)の講師ジェーンズのお屋敷が残っていたり、歴史好きにはそそられるスポットです。

 

討ち入りが起きたときすでに59歳だった

細川綱利で注目のエピソードは、なんといっても赤穂事件でしょう。

討ち入り後に切腹が決まった後、死までの時間、赤穂浪士たちを預かったのは綱利だったのです。

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詳細は上記に譲るとして、このとき綱利は59歳。

当時の基準ではとっくに老人です。

にもかかわらず、夜中まで浪士たちの到着を待っていたあたりに、律儀さや敬意がうかがえますね。

食事などもご馳走レベルのものを出していたらしく、浪士たちには「恐れ多いのでこんなに厚遇しないでくだされ」(※イメージです)と言われたそうで。

むろん細川家がいくら大大名でも、幕府の決定には抗いきれず、浪士たちは全員切腹が決まります。

まぁ、現在から見るとテロ行為ですし、当時の徳川綱吉の方針からしても許されるものではありません。

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それでも綱利は、最後の最後まで浪士への配慮を止めませんでした。

介錯人にはそれなりの身分がある者を当てるだけでなく、切腹が済んだ後、浪士たちが埋葬された泉岳寺へ多額の寄付をしています。

 

「どのような人を家臣に迎えるべきか」

そんな感じで公的デビューの初っ端から波乱万丈だった綱利が亡くなったのは、72歳のときのこと。

養子の細川宣紀(のぶのり)に藩主の座を譲ったのが70歳ですから、まさにベストタイミングというか、計画性ありすぎて逆にコワイ。

ちなみに綱利は、熊本藩主になってからの細川家でかなり長生きなほうです。

上記の通り、父で二代藩主の光尚は30代のうちに亡くなっていますし、七代の宗孝は同じく30代のうちに人違いで殺されるという最悪の椿事に見舞われています。

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その後がドケc……もとい「銀台公」として有名な細川重賢です。

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さすが名門・細川家――江戸時代に入ってもエピソードに事欠かないですね。

かつて、綱利の曽祖父である忠興は、ときの将軍・徳川秀忠に「どのような人を家臣に迎えるべきか」と聞かれたことがあります。

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忠興はこの難しい質問に「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう」と答えました。

「荒波に揉まれて良い味になる明石の浦の牡蠣の殻のように、人間も苦労に鍛えられて良い人になるから、そういった人をお迎えなさい」という意味です。

図らずも、自らの子孫がそのような人生をたどったことを、細川忠興はあの世からどう見ていたのでしょう。

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【参考】
国史大辞典
細川綱利/Wikipedia

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