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【徳川綱吉】
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儒学者・佐藤直方は当時から批判していた
当時も冷静に批判した人物がいました。
儒学者の佐藤直方です。彼の批判を箇条書きでまとめてみました。
・そもそも刃傷沙汰におよんだ浅野側が悪いのに、逆恨みして被害者を襲撃したのはおかしい
・改易に不満があるのであれば、決定した幕府に不満をぶつければよいのに、よってたかって被害者を襲うとはどういうことだ。復讐のターゲットがおかしいだろ
※こういうのをソフトターゲットと言います。本来の標的のガードが堅い場合、民間人など、本来無関係で狙いやすい標的を殺傷すること。テロの常套手段です
・47人で徒党を組んで、相手が寝静まった雪の夜に人の家を襲うなんて、野蛮の極みで卑劣極まりない
・大石内蔵助の当初の目的は、長矩の弟である長広を赤穂藩主とし、家を継続させることであった。それが叶わなかったから襲撃に切り替えたんだろ
・犯罪終了後、幕府にわざわざ知らせたのは何故? 売名行為じゃないの? 純粋な復讐目的ならその場で切腹すべきでは? 本当はワンチャンスあると思っていたんでしょ?
これはなかなか手厳しい話ですが、しかもこの批判は的を射ているようにも思えます。
『忠臣蔵』のロマンを思えば反論したくもなりますが、なんせ同時代人の評価ですからね。史実からするとこれが近いのではないでしょうか。
仕官できなかった浪士の苦しみはもっともなことですけれども、ワンチャン狙いで事件の被害者を集団で襲撃するというのは褒められたことではありません。
そう思いたくなるのは、私たちが現代人であるからということもあるでしょう。
武士の義よりも、理性的な判断
ここで当時の武士としての規範を考えてみましょう。
襲撃された吉良側の反撃はお粗末で、その不備は武士らしくない。
襲撃した側の赤穂浪士には、主君のために戦ったという忠義心はある。
もし綱吉が、武家の倫理を重視するのであれば、赤穂浪士を死罪としないこともできました。実際、そうすべきだという意見もありました。
そうなれば、彼らは刑に服した後、忠義の武士として世間から賞賛され、仕官が好条件でかなった可能性があります。
それこそが、浅野家再興がならなかった浪士たちにとって、最後の手段――ワンチャンスだったのでしょう。
しかし、あくまで文治主義者の綱吉は、暴力と流血を伴う武士の義よりも、理性的な判断を重んじました。
一方で、武士の義を称揚したい人々は浪士たちの行動を讃えました。
では、この事件をどう評価するか?
それは武士の義をどう思うかによって変わります。
忠義こそ最も素晴らしいと考える人にとって、綱吉の判定は憎むべきものであり、その怒りの矛先は綱吉にも向かいました。
そしてそのイメージは『忠臣蔵』というフィクションで、さらに増幅されていったのです。
四十七人の浪士が起こした血みどろの復讐劇に対して、共感できるかどうかは、受け手が武士道を理解しているかどうかが問題となります。
暴力的な手段と、主君への盲従を美徳と見なす。
そんな武士道の美学を理解するかどうか。
同時代人でも儒学者の佐藤直方にとっては、愚かな事件とみなされました。彼は武士道よりも、儒学が定義する人間の理性を信じていたのです。
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