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【松江藩】
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税率UPでついに財政再建! しかし直後に茶道楽に走る
そんなトーチャンの背中を見て育った……というか厄介事を押し付けられた七代・松平治郷は、真逆のやり方で藩を立て直そうとします。
基本はやはり「質素倹約」です。
それまで四公六民(収穫の四割が税金で六割が農民の取り分)だった税率を七公三民にするという厳しい税収を行い、11年ほどかけて再建に成功。
防砂林や治水事業にも成功し、やっと松江藩は健全な状態になったかに見えました。
しかし、安心しすぎたのか、その後の治郷は何千両もする茶器を買い漁るなど、父親とは違った方向の奇行に走るようになります。
せっかく持ち直した財政は再びどん底に――家臣も領民も「何やってんだよアンタ」と言いたかったに違いありません。
治郷は茶人としての目や趣味は良かったので、彼の隠居後の名をとって「不昧公好み(ふまいこうごのみ)」とされる茶器や和菓子、庭園が松江の名物になったそうなのですが……何でしょうか、このスッキリしない感じ。
そんなこんなで物議を醸した治郷の跡を継いだのが、八代・松平斉恒です。
当時15歳ですから、中学三年生でトーチャンとそれ以前の代からの難題を任されたことになります。カワイソス(´・ω・`)
斉恒自身は塙保己一に延喜式の校訂をさせるなど学問にも熱心でしたが、31歳の若さで世を去ったため、やはり財政再建は達成されないまま代替わりとなります。
幕末の混乱期 積極的に動くがドコか抜けていて
九代・松平斉斎(なりとき)は、藩主になったときわずか7歳。
この時点で悪~い予感が漂ってきますよね。
彼の代には天保の大飢饉をはじめとする天災が多数ぶち当たりました。
しかし、斉斎本人に危機感はなく、幕府に12万両も献金した上、さらに自分は相撲や鷹狩に興ずるというバカ殿っぷりを発揮します。
一応、家老が教育したはずなんですが、何がどうしてそうなった。
当然「こんなバカ殿にいつまでも藩主をやらせておけるか!」と思われ、斉斎は39歳のときに無理やり隠居させられました。そりゃね……。
十代・定安は斉斎の娘婿。
血筋としては同じ越前松平家でしたので、「親戚に尻拭いをしてもらった」という感じになりました。
ときは既に幕末です。
定安も幕府や外国の危機を感じ、西洋の学問や軍艦を取り入れ、女学校を作り、欧米へ留学生を派遣するなど、積極的に動きました。
しかし、松江藩領だった隠岐で徴兵をしたため、住民から一揆を起こされてしまったこともあります。
このときは武力鎮圧しようとしたところを、薩摩や長州から反対され、間一髪のところで取りやめたといいますから、果断というか、こう……窮地に陥るとテンぱるタイプだったんですかねぇ。
松江藩とイザコザを起こした隠岐はその後、鳥取藩の預かりとなって何とかなりました。
ついでに言うと、松江藩の財政も廃藩置県によってどこかへ行ったようです。その辺の詳細は不明です(´・ω・`)
★
松江城の天守は江戸時代中期に改修されたときのもので、現在は国宝に指定されています。
島根県というとやはり出雲大社が一番の観光地ですが、合わせて松江城や松江市を訪れ、神話の時代から江戸時代を感じてみるのも面白そうです。
歴代藩主のアレな所業がありつつも、そうした歴史的な空気が残っているあたり、名もなき一般人の努力が大きかったのでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
松平斉恒/wikipedia
松平治郷/wikipedia
松江藩/wikipedia
松平宗衍/wikipedia