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【大槻玄沢】
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蘭学界に大槻玄沢あり
天明5年(1785年)、大槻玄沢は一関藩の本藩にあたる仙台藩で藩医に抜擢され、江戸詰となりました。
彼を推薦したのが工藤平助です。
仙台藩医である平助は、享保19年(1734年) 生まれ。前野良沢の一回り年下、杉田玄白の同年代にあたります。
平助は医師としてよりも、ロシアを研究した『赤蝦夷風説考』の筆者として知られています。
18世紀後半ともなると、ヨーロッパでは航海技術が向上し、帝国主義も芽生えつつありました。
ロシアからみれば日本は隣国であり、その影がさすのは当然のこと。
蘭学者たちは学問だけにはとどまらず、外交や国防についても思いを巡らせる時代となっていたのです。
寛政元年(1789年)、江戸詰になったことを契機に、玄沢は私塾・芝蘭堂を開き、多くの弟子を育てました。
結果、蘭学界にその人ありと、名を知られるようになったのです。
彼ら蘭学者のもと、江戸にはじわじわと西洋文化が根付いてゆきました。
例えば「オランダ正月」などはその一例。
キッカケは寛政6年(1794年)に江戸へやってきたオランダ商館長ヘイスベルト・ヘンミーです。
彼らが滞在する長崎屋を訪れたとときに、グレゴリオ暦を取り入れた「オランダ正月」という行事を蘭学者たちは楽しむようになったのです。
ちなみに、ロシア帰りの大黒屋光太夫も、ここに招かれていました。
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フランス革命の影響が日本にも及ぶ
江戸で蘭学者たちが西洋の文物を楽しんでいる頃、ヨーロッパでは大きく歴史が動いていました。
フランス革命、そしてナポレオン戦争が勃発。
幕府は密かにその情報を入手し、驚愕していました。
当時の日本人からすると、フランス革命とは大規模な百姓一揆です。庶民に将軍と御台所の首が刎ねられるなど、幕府にとっては悪夢にほかなりません。
フランス革命の背景には、世界規模の寒冷化による不作も影響していました。
当然のことながら、日本にもその悪影響はあり、一揆はますます増え、それに伴い治安も悪化。
暗雲たちこめる時代の狭間で、大槻玄沢は幅広い好奇心と知識をもとに、様々な著作をまとめてゆきます。
・オランダ商館長との対談をまとめた『西賓対晤』
・百科事典『厚生新編』の翻訳、『生計纂要』として宮城県指定有形文化財となる
・漂流者の証言をまとめた『環海異聞』執筆
などなど……玄沢には、実に300を超える著訳書があるとされます。
文化8年(1811年)には、幕府から蘭書の翻訳を依頼されるようにもなりました。
恩師の杉田玄白は喜びと共にそのことを振り返っています。
ふと思い立って志を同じくする者と始めた蘭学が、こうも大きく育ち、御公儀にまで認められるとは……そんな感謝の思いは『蘭学事始』に記されています。
そして玄白が文化14年(1817年)に亡くなると、その10年後の文政10年(1827年)に大槻玄沢も死去。
当時としてはかなり長生きとなる享年70でした。
後世につながる知識
杉田玄白や大槻玄沢の後を担う蘭学者たちは、程なくして苦しい時代を迎えます。
日本と西洋の関係は緊迫化の一途をたどり、西洋の学問を学ぶ蘭学者たちには向かい風となるばかり。
その現れとも言える事件が、玄沢の死から12年後の天保10年(1839年)に起きます。
幕府の海禁政策に異を唱える高野長英・渡辺崋山らが【蛮社の獄】によって厳しい処罰を受けるのです。
さらに時代がくだると、西洋に目を向ける者たちはこんな現実に直面します。
もはやオランダ語だけではいけない。英語も学ぶべき――と幕府も認識をあらため、英語のできる通詞の育成に努めます。
そしてついには【黒船来航】を迎え、江戸幕府と諸藩は新たな動乱の時代へと向かってゆくのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
杉田玄白著/片桐一男訳『蘭学事始』(→amazon)
片桐一男『杉田玄白 (人物叢書) 』(→amazon)
他