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【大黒屋光太夫】
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体験記を桂川甫周が『北槎聞略』にまとめ、幕府へ
その後、光太夫は江戸の小石川薬草園に屋敷を与えられ、蘭学者と交流しながら西洋の学問を広めるために協力します。
漂着の経緯とロシア人・ロシア帝国については、桂川甫周(かつらがわほしゅう)という学者が光太夫らにインタビュー。
『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』にまとめて幕府へ献上しています。
当時のロシアについての風俗や社会制度、言語などが驚くほど詳細に掲載、貴重な史料となりました。
漂着後のガッツといい、光太夫やその他の船員スペック高すぎやしませんか。
もちろんソースが記憶なので間違いもあるのですが、相違点については巻頭で「外国のことだから、彼らが全てを理解したとは限らない。でも正誤の判定は私には出来ないから、後世の人に任せる」(意訳)と書いてあります。用意がいいですね。
この本は昭和十八年に刊行された版を近代デジタルライブラリー(→link)で読むことが出来るので、旧字体や旧仮名遣いでもイケる方は読んでみるのも一興かと。
218ページあるので、画面上で全部読むのはなかなか根性が要りますが、物語や論文ではなく箇条書きに近いので、比較的読みやすいと思います。
例えば「虫」のページには、簡潔な説明の後「寒いので虫の数は非常に少ない」と簡単に済ませてある一方、「魚」のページでは種類や大きさ、調理法まで書いてあります。
「草」や「獣」も似たような感じです。
日本人の興味がどんなものに向くかということがよくわかりますね。知ってた。
これまた余談ですが、最初のほうに「わかりやすくするためにあえて俗っぽい言葉で書いたよ」(意訳)とか「でも嘘は書いてないよ」(意訳)と書いてあります。
よくそのまま幕府に出したものですね。
そのくらいはおkなことになってたんでしょうか。江戸幕府って意外と心が広いなぁ。
現代の公文書をこんなフランクな口調で書こうものなら、次の日には全世界にネットで公開されて大後悔時代になることでしょう。世知辛い世の中になったものです。
供養が済み碑まで立てられていた?
光太夫は幕府の許可を得て故郷・伊勢へも一度帰っていますが、基本的には江戸で穏やかに暮らしました。
「光太夫は幕府に軟禁されていた」とする小説があるので、そちらのイメージが強いかもしれません。
しかし実際には、多くの学者や知識人たちとの交流もあり、かなり自由な暮らしだったとか。
そりゃ、今でいえば「隣の銀河に偶然行っちまったけど帰ってきたぜ」みたいな扱いだったでしょうから、学者さんたちがこぞって訪れるのも無理もないですよね。
ちなみに、帰国まであんまりにも時間がかかったため、光太夫の実家のほうでは「アイツはもう帰ってこないに違いない……」と思い込み、供養のための碑を作ってしまったそうです。
もしかして上記の伊勢帰国は、これを撤回させるかただ見るためだったのかもしれませんね。
その辺の真偽はわかりませんけども、碑はきっちり残っているそうなので、光太夫もあまり細かいことは気にしない人だったようです。
人生、テキトーなほうがうまく行くこともあるんでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
大黒屋光太夫/wikipedia