歌川国輝『仮名手本忠臣蔵』より/wikipediaより引用

江戸時代

将軍様お膝元の江戸城で七度も勃発していた!切った張ったの刃傷事件全まとめ

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江戸城内での刃傷沙汰
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⑤延享四(1747年)年8月 板倉勝該事件

被害者:細川宗孝(熊本藩主)

「人違いでブッコロされてしまった」という不運にもほどがある事件です。

なぜ、そんなことが起きてしまったのか?

というと、家紋が似ていて、当初狙われていた人物と間違われたのですね。

と、こちらも以下の記事↓に詳細がありますので、ここでは割愛させていただきますね。

細川宗孝
家紋が似ていたため誤って斬殺された細川宗孝~伊達宗村の機転が熊本藩を救った

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⑥天明四年(1784年)3月 佐野政言(まさこと)事件

被害者:田沼意知(おきとも・若年寄)

意知は田沼意次の嫡男です。意次の評価については現在見直されつつありますが、当時は「元の身分が低かったのに、老中になったなんてどんな悪事を働いているんだ」と思われていました。

田沼意次
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む

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となると、当然意知も有る事無い事言われまくっていただろうことは、何となく想像がつきますよね。

佐野家は徳川家が三河にいた頃からの譜代の臣でしたが、政言の代にはなんと10人きょうだいで男子がたった一人(つまり政言だけ)という状況になっていました。しかも政言は末っ子です。

何よりも跡継ぎが大切な時代・身分でこれでは、幼い頃から相当のプレッシャーを感じて育ったものと思われます。

例によって政言が凶行に及んだ理由ははっきりしていないのですが、予測としてはこんなものがあります。

「佐野家の領地にある神社を、意知の家臣がぶんどったから」

「田沼家の系図を書き換えるため、意次と意知が佐野家の系図を(ry」

「田沼家に賄賂を送ったのに昇進できず、恨んでいた」

上2つについては恨むのもやむなしというところですが、それならそれで裁判に出るという手もあったでしょう。

「相手が老中だから訴えられなかった」というのもありそうですが、他にも老中や奉行はいるわけですし、その中で反田沼派の人を頼ればいい話です。

最後のは完全に私怨としか。まあ、松平定信も似たような理由で田沼家を毛嫌いしていたフシがあるので、当時は珍しくなかったのかもしれませんが。

松平定信
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幕府は例によって「乱心」の一言で片付けました。

しかし、世間から嫌われてしまっていた意知を殺したことで、政言は庶民から「世直し大明神」と讃えられたといいます。

今も東京都台東区に政言のお墓があるのですが、一般公開はしていないのか、近年訪れた人はいないようです。古い写真によると、墓石の上半分が壊れてしまっていて、何と書いてあったのかわからなくなっています。

 


⑦文政六年(1823)年4月 松平外記事件

被害者:旗本5名

これがこの記事文頭の事件【千代田の刃傷】の別名ですね。

「ここまで6件も同様の事件が起きているのに、防げなかったのか」とか色々とツッコミどころはありますが、江戸時代というのは平和が強調される一方で「場合によっては藩邸の中でも殺人事件が起こるような時代」ですので、物理的に不可能だったのかもしれません。

その一方で馬に乗れない大名もいたのですから、いやはや「事実は小説より奇なり」ですね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末』(→amazon
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
千代田の刃傷/Wikipedia
松平忠寛/Wikipedia
田沼意知/Wikipedia
佐野政言/Wikipedia
TAITOおでかけナビ(→link

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