蔦屋重三郎が主役となる大河ドラマ『べらぼう』は、江戸の町人文化にスポットが当てられるため、戦国や幕末大河とは一線を画す。
そんな印象の方も多いかもしれませんが、“血なまぐさい”事件がないわけではありません。
特に本作での注目は田沼意知(おきとも)です。
劇中では宮沢氷魚さんがキャスティングされ、折り目正しい武士の写真が公開されるだけでなく、
“異例の出世を遂げた悲劇のプリンス”
というキャッチコピーが付けられました。
飛ぶ鳥を落とす勢いで出世した田沼意次の嫡男ですから「プリンス」というのは、すぐにピンと来られるでしょう。
しかし「悲劇」とは一体?
意次が始めた経済改革を、次世代でもさらに躍進することを託されていた意知。
その生涯を「悲劇」と共に振り返ってみましょう。
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田沼意次の嫡男として生まれる
寛延2年(1749年)、田沼意次に待望の嫡男・田沼意知が生まれました。
父の意次は、伊丹直賢の娘を正室に迎えていました。
伊丹家はもともと紀伊藩士であり、徳川吉宗に召し抱えられて幕政に携わった経緯があり、田沼家とは共通する出自となります。
しかし意次と正室との間には子ができません。
生まれてきた嫡男というのは、継室である黒沢定紀の娘との間にできた子であり、田沼家にとっては期待の存在となりました。
田沼意次の素顔は、当時を知る人によれば、家臣を憐れむ聡明なものであったとされます。
そんな父の教育を受け、意知は育ってゆきました。
父子で異例の大出世
田沼意知は明和元年(1764年)、数え16歳という若さで世に出ます。
将軍である徳川家治に初お目見えを果たしたのです。
それも単なる儀礼ではなく、飛ぶ鳥を落とす勢いの意次の後継者として、認められました。
同年に、従五位下・大和守の官位を与えられると、天明元年(1781年)には播磨守となり、天明2年(1782年)には山城守。
のみならず、天明元年(1781年)末には、奏者番(そうしゃばん)に抜擢されます。
奏者番は、江戸城内の儀式典礼に関わる職で、さして大きな役目とはいえません。
しかし、このルートを順調に上り詰めていけば老中に到達する、本来は譜代大名がたどる出世コースでした。
これは異例中の異例です。
父の田沼意次にしても譜代大名からはほど遠い血筋であり、血統を重視する幕閣においてはありえないばかりか、異例はさらに続きます。
天明3年(1783年)、若年寄に就任するのですが、これも只事ではありません。
前例重視の日本において“初”という抜擢なだけでなく、当時、父の田沼意次も老中職にあったため、
父→老中
子→若年寄
という組み合わせになり、あまりにもパワーバランスの歪んだ人事と言えました。
なんせ意知は就任時、部屋住の身です。
老中と若年寄が同居することは認められず、そのため父とは別居することとなりました。
確かに江戸時代には、将軍の側近となった人物が異例の出世を遂げた先例はいくつかありましたが、元々の身分が高くはない父とその子二代となると、とにかく前例のないこと。
それだけに、プリンスらしい華やかな道は、どこか不穏な影もさしていました。
後に佐野善左衛門は、斬奸状にこう記しています。
勤功の家柄の者を差し置き、天下御人もこれ無きように、部屋住みより若年寄に致し候
異常なまでの出世は、それだけで罪とされかねない危険な状況であり、さらに意知は光り輝く“プリンス”だから余計に厄介でした。
天明3年(1783年)の若年寄就任以来、将軍家治のお供にしばしば姿を見せていたのです。
まるで彼のことを披露するために将軍がいるかのような……。
田沼政治への不満が募ってゆく最中、キラキラした意知の姿が人びとの怒りを掻き立てるのも、無理ないところであったのかもしれません。
そして、田沼時代を終わらせかねない悲劇が起こるのです。
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