佐野政言に斬りかかられる田沼意知(左)/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる

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殿中での惨劇

天明4年(1784年)3月24日、昼過ぎのことです。

若年寄3人が退出することになり、その見送りに大勢の者がいました。

大目付、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、留守居番、町奉行、小普請支配、新番頭、目付たち合わせて16人。

中の間(40畳)から桔梗の間(36畳)を通り、出ていく手筈でした。

それだけの人数がいたにも関わらず、なぜ、止められなかったのか?

事件のあと、このことが問題視されることとなります。

10畳敷きの新番所には5人の番士がいました。

「覚えがあろうッ!」

突如、番士の佐野善左衛門政言が叫び、手にした粟田口一子忠綱作の刀も鞘を払いました。

そして中の間から桔梗の前へ進んでいた田沼意知を、袈裟懸けで切りつけたのです。

佐野政言/wikipediaより引用

意知も反撃しようにも、江戸城の殿中。

脇差を抜けず、鞘で受け止めるほかありません。

意知は後退りし、桔梗の間へ逃れようとします。

「覚えがあろうッ!」

さらに切り付ける佐野。

「覚えがあろうッ!」

またも、切り付けます。

幾度も斬られた意知は、うつ伏せに倒れてしまいました。

かなり遠くにいた大目付の松平忠郷がこの騒ぎにようやく気づき、佐野を背後から組み伏せました。

目付の柳生久通が佐野の手から血に染まった刀を取り上げたとも、松平忠郷がそうしたともされます。

このとき、意知を庇おうとしたとされるのは太田資愛のみ。これものちに紛糾します。

江戸城殿中で白昼堂々、若年寄が斬られる。おそるべき事態でした。

 


惨劇を喜ぶ江戸っ子

負傷した田沼意知は傷の手当てを受けました。

が、不十分な治療しか受けられなかったという噂も立つほど。

知らせを受けた父の意次が登城したともされます。

意知の妻は芝居見物をしており、観劇中にこの知らせが届きました。

そのため芝居小屋は大騒ぎになると共に、江戸っ子の口から口へ事件が語り伝えられることとなります。

「なんかよォ、いつかこうなると思ってたんだよナァ」

「なんでも田沼の家の飯が赤く見えてたっていうぜェ」

武士や儒者は「怪力乱神を語らず」とはいうものの、江戸っ子はそんなことはありません。

ゴシップが瞬く間に江戸中へ広まってゆきます。

事件の関係者はどうなったか?

佐野善左衛門は取り押さえられ、蘇鉄の間の隅の部屋に押し込めらてから、町奉行・曲淵景漸に引き渡されます。

それから小伝馬町の揚屋に入れられました。

揚屋はお目見え以下の御家人らの未決囚が入れられる牢です。佐野は旗本であるため、悪しき扱いとされたのです。

取調べの結果、佐野は乱心ゆえの犯行とされます。

しかし、この動機に納得できない者は大勢いました。

斬られた意知は若年寄辞職を願うものの、養生するようとどめられます。

当初は命に別状はないと発表されながら、実際には致命傷を負わされていた。

そして事件の8日後、 天明4年4月2日(1784年5月20日)に没したとされますが、その前に亡くなったのではないかともされています。

享年36。

意知の死が発表された翌4月3日、佐野には切腹が申し渡されました。

乱心といえど、殿中で刀を抜き、若年寄を殺したことがその理由です。享年28。

佐野の遺骸が引き取られ、神田山徳本寺に葬られると、参詣者が足繁く訪れるようになるのです。

 


意知を殺した「世直し大明神」

佐野の墓は花であふれ、焼香の煙がたちこめました。

参拝客を目当てに花と線香、飲料水を扱う物売りが寺に出てくるほど。

賽銭箱も銭であふれます。佐野はまるで死して神になったかのようでした。

なぜ、そんな現象が起きたのか?

当時の江戸っ子は物価高騰と飢饉に苦しんでいました。

天明2年(1782年)は凶作。天明3年(1783年)には淺間さんが大噴火を起こしています。

上がり続ける物価に人々が苦しんでいる中、こんな噂がたちのぼったのです。

「佐野善左衛門が腹を切ってから、米の値段が下がり始めたってよ」

「あの方は人でねえ、神だ、諸人お救いのためにこの世に生まれたにちげぇねぇ!」

「世直し大明神だ!」

荒唐無稽な噂のようで、庶民の思いは感じられます。

毎日を生きるのに精一杯だった江戸の町民たちにとって、出世街道を驀進してキラキラと輝く若きプリンスが姿を見せたら、自然と反発も買ってしまう。

一方、田沼意知の葬列には、不穏な空気が漂いました。

寺に向かう葬列に対し、物乞いが銭をねだり無視されると、物乞いたちは石を投げつけ始めました。これを契機として、見物人たちまで石を投げ、罵詈雑言が飛び交い始めたのです。

と、そこへ、さらに二人の物乞いが姿を見せました。

田沼家の家紋である「七曜の紋」のついた菰(こも)を被った一人。

疫病を祓う鍾馗の扮装をした一人。

七曜紋を鍾馗が追いかけ、斬り殺す真似をします。

歌川国芳の『鍾馗図』/wikipediaより引用

夜になると、意次の屋敷の前で歌声が響いてきます。

「いやさの善左て 血はさんさ……」

これは先年から流行している

「いやさの水昌 天気はさんざ」

という流行歌のもじりでした。

「いいねェ」

「ざまァねぇな!」

こうした江戸っ子たちの喝采と共に「さんさ」を入れた替え歌も作られました。

江戸っ子たちは、幕府が発表した佐野の乱心を信じておりません。

こじつけのような私怨説がまことしやかに語られます。

江戸時代に入り、明智光秀織田信長を弑虐した理由として「私怨説」が盛んに語られるようになりました。

日本人は儒教思想を尊ぶ一方、いたぶられた下の者が逆襲するシナリオが好きなようです。

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