田沼意知の注目度が飛躍的に高まっています。
あの田沼意次の嫡男であり、大河ドラマ『べらぼう』では宮沢氷魚(ひお)さんが演じているのですが、第27回放送の最後で矢本悠馬さん演じる佐野政言に斬りつけられたのです。
いかにも優しげな貴公子だった意知は一体どうなってしまうのか?
番組の公式案内では
“異例の出世を遂げた悲劇のプリンス”
というキャッチコピーが付けられるほどですが、「悲劇」とは一体なんだったのか?
史実における田沼意知の生涯を振り返ってみましょう。

田沼意知/国立国会図書館蔵
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田沼意次の嫡男として生まれる
寛延2年(1749年)、田沼意次に待望の嫡男・田沼意知が生まれました。
父の意次は、伊丹直賢の娘を正室に迎えていました。
伊丹家はもともと紀伊藩士であり、徳川吉宗に召し抱えられて幕政に携わった経緯があり、田沼家とは共通する出自となります。
しかし意次と正室との間には子ができません。
生まれてきた嫡男というのは、継室である黒沢定紀の娘との間にできた子であり、田沼家にとっては期待の存在となりました。
田沼意次の素顔は、当時を知る人によれば、家臣を憐れむ聡明なものであったとされます。
そんな父の教育を受け、意知は育ってゆきました。

田沼意次/wikipediaより引用
父子で異例の大出世
田沼意知は明和元年(1764年)、数え16歳という若さで世に出ます。
将軍である徳川家治に初お目見えを果たしたのです。
それも単なる儀礼ではなく、飛ぶ鳥を落とす勢いの意次の後継者として、認められました。

徳川家治/wikipediaより引用
同年に、従五位下・大和守の官位を与えられると、天明元年(1781年)には播磨守となり、天明2年(1782年)には山城守。
のみならず、天明元年(1781年)末には、奏者番(そうしゃばん)に抜擢されます。
奏者番は、江戸城内の儀式典礼に関わる職で、さして大きな役目とはいえません。
しかし、このルートを順調に上り詰めていけば老中に到達する、本来は譜代大名がたどる出世コースでした。
これは異例中の異例です。
父の田沼意次にしても譜代大名からはほど遠い血筋であり、血統を重視する幕閣においてはありえないばかりか、異例はさらに続きます。
天明3年(1783年)、若年寄に就任するのですが、これも只事ではありません。
前例重視の日本において“初”という抜擢なだけでなく、当時、父の田沼意次も老中職にあったため、
父→老中
子→若年寄
という組み合わせになり、あまりにもパワーバランスの歪んだ人事と言えました。
なんせ意知は就任時、部屋住の身です。
老中と若年寄が同居することは認められず、そのため父とは別居することとなりました。
確かに江戸時代には、将軍の側近となった人物が異例の出世を遂げた先例はいくつかありましたが、元々の身分が高くはない父とその子二代となると、とにかく前例のないこと。
それだけに、プリンスらしい華やかな道は、どこか不穏な影もさしていました。
後に佐野善左衛門は、斬奸状にこう記しています。
勤功の家柄の者を差し置き、天下御人もこれ無きように、部屋住みより若年寄に致し候
異常なまでの出世は、それだけで罪とされかねない危険な状況であり、さらに意知は光り輝く“プリンス”だから余計に厄介でした。
天明3年(1783年)の若年寄就任以来、将軍家治のお供にしばしば姿を見せていたのです。
まるで彼のことを披露するために将軍がいるかのような……。
田沼政治への不満が募ってゆく最中、キラキラした意知の姿が人びとの怒りを掻き立てるのも、無理ないところであったのかもしれません。
そして、田沼時代を終わらせかねない悲劇が起こるのです。
殿中での惨劇
天明4年(1784年)3月24日、昼過ぎのことです。
若年寄3人が退出することになり、その見送りに大勢の者がいました。
大目付、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、留守居番、町奉行、小普請支配、新番頭、目付たち合わせて16人。
中の間(40畳)から桔梗の間(36畳)を通り、出ていく手筈でした。
それだけの人数がいたにも関わらず、なぜ、止められなかったのか?
事件のあと、このことが問題視されることとなります。
10畳敷きの新番所には5人の番士がいました。
「覚えがあろうッ!」
突如、番士の佐野善左衛門政言が叫び、手にした粟田口一子忠綱作の刀も鞘を払いました。
そして中の間から桔梗の間へ進んでいた田沼意知を、袈裟懸けで切りつけたのです。

佐野政言/wikipediaより引用
意知も反撃しようにも、江戸城の殿中。
脇差を抜けず、鞘で受け止めるほかありません。
意知は後退りし、桔梗の間へ逃れようとします。
「覚えがあろうッ!」
さらに切り付ける佐野。
「覚えがあろうッ!」
またも、切り付けます。
幾度も斬られた意知は、うつ伏せに倒れてしまいました。
かなり遠くにいた大目付の松平忠郷がこの騒ぎにようやく気づき、佐野を背後から組み伏せました。
目付の柳生久通が佐野の手から血に染まった刀を取り上げたとも、松平忠郷がそうしたともされます。
このとき、意知を庇おうとしたとされるのは太田資愛のみ。これものちに紛糾します。
江戸城殿中で白昼堂々、若年寄が斬られる。おそるべき事態でした。
惨劇を喜ぶ江戸っ子
負傷した田沼意知は傷の手当てを受けました。
が、不十分な治療しか受けられなかったという噂も立つほど。
知らせを受けた父の意次が登城したともされます。
意知の妻は芝居見物をしており、観劇中にこの知らせが届きました。
そのため芝居小屋は大騒ぎになると共に、江戸っ子の口から口へ事件が語り伝えられることとなります。
「なんかよォ、いつかこうなると思ってたんだよナァ」
「なんでも田沼の家の飯が赤く見えてたっていうぜェ」
武士や儒者は「怪力乱神を語らず」とはいうものの、江戸っ子はそんなことはありません。
ゴシップが瞬く間に江戸中へ広まってゆきます。

事件の関係者はどうなったか?
佐野善左衛門は取り押さえられ、蘇鉄の間の隅の部屋に押し込められてから、町奉行・曲淵景漸に引き渡されます。
それから小伝馬町の揚屋に入れられました。
揚屋はお目見え以下の御家人らの未決囚が入れられる牢です。佐野は旗本であるため、悪しき扱いとされたのです。
取調べの結果、佐野は乱心ゆえの犯行とされます。
しかし、この動機に納得できない者は大勢いました。
斬られた意知は若年寄辞職を願うものの、養生するようとどめられます。
当初は命に別状はないと発表されながら、実際には致命傷を負わされていた。
そして事件の8日後、 天明4年4月2日(1784年5月20日)に没したとされますが、その前に亡くなったのではないかともされています。
享年36。
意知の死が発表された翌4月3日、佐野には切腹が申し渡されました。
乱心といえど、殿中で刀を抜き、若年寄を殺したことがその理由です。享年28。
佐野の遺骸が引き取られ、神田山徳本寺に葬られると、参詣者が足繁く訪れるようになるのです。
意知を殺した「世直し大明神」
佐野の墓は花であふれ、焼香の煙がたちこめました。
参拝客を目当てに花と線香、飲料水を扱う物売りが寺に出てくるほど。
賽銭箱も銭であふれます。佐野はまるで死して神になったかのようでした。
なぜ、そんな現象が起きたのか?
当時の江戸っ子は物価高騰と飢饉に苦しんでいました。
天明2年(1782年)は凶作、天明3年(1783年)には淺間山が大噴火を起こしています。
上がり続ける物価に人々が苦しんでいる中、こんな噂がたちのぼったのです。
「佐野善左衛門が腹を切ってから、米の値段が下がり始めたってよ」
「あの方は人でねえ、神だ、諸人お救いのためにこの世に生まれたにちげぇねぇ!」
「世直し大明神だ!」
荒唐無稽な噂のようで、庶民の思いは感じられます。
毎日を生きるのに精一杯だった江戸の町民たちにとって、出世街道を驀進してキラキラと輝く若きプリンスが姿を見せたら、自然と反発も買ってしまう。
一方、田沼意知の葬列には、不穏な空気が漂いました。
寺に向かう葬列に対し、物乞いが銭をねだり無視されると、物乞いたちは石を投げつけ始めました。これを契機として、見物人たちまで石を投げ、罵詈雑言が飛び交い始めたのです。
と、そこへ、さらに二人の物乞いが姿を見せました。
田沼家の家紋である「七曜の紋」のついた菰(こも)を被った一人。
疫病を祓う鍾馗の扮装をした一人。
七曜紋を鍾馗が追いかけ、斬り殺す真似をします。

歌川国芳の『鍾馗図』/wikipediaより引用
夜になると、意次の屋敷の前で歌声が響いてきます。
「いやさの善左て 血はさんさ……」
これは先年から流行している
「いやさの水昌 天気はさんざ」
という流行歌のもじりでした。
「いいねェ」
「ざまァねぇな!」
こうした江戸っ子たちの喝采と共に「さんさ」を入れた替え歌も作られました。
江戸っ子たちは、幕府が発表した佐野の乱心を信じておりません。
こじつけのような私怨説がまことしやかに語られます。
江戸時代に入り、明智光秀が織田信長を弑虐した理由として「私怨説」が盛んに語られるようになりました。
日本人は儒教思想を尊ぶ一方、いたぶられた下の者が逆襲するシナリオが好きなようです。
意知の死はビジネスチャンスになる
“プリンス”の死を喜ぶ江戸っ子の姿は2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも登場するでしょう。
江戸っ子が喜ぶこの大事件を、当時のメディアが取り上げないわけがありません。
当時は「黄表紙」というジャンルの書物がその一つ。
安永4年(1775年)、恋川春町の『金々先生栄花夢』から始まった黄表紙は、世相風刺のスタンスが多いに受けて、天明期には江戸っ子たちの人気ジャンルとなっていました。
売れっ子作家の山東京伝も、意知殺害事件を題材とした『時代世話二挺鼓』を書きあげています。

山東京伝/wikipediaより引用
こうした功績は、作家だけに託されたものではありません。
作品を発注する版元が「江戸っ子が何を読みたいか?」という需要を読み当てるのです。現代で言えば編集者の仕事ですね。
舞台を平安時代にして【平将門の乱】を題材にした作品も作られました。
田沼意知を平将門にして、その平定に向かった藤原秀郷を佐野にした物語。
秀郷が将門の首を打つ場面、七つの魂が将門の体から飛び出す挿絵もつけられたりしました。田沼家の七曜紋を象徴しているんですね。
その黄表紙は天明8年(1788年)、田沼意次の死後に発表されました。
意次の死後、かつて隆盛を誇った田沼家はわずか一万石の家となり、栄華からはほど遠い状況へ。
刊行のタイミングは、水に落ちた犬を叩くような、陰険極まりない時期となります。
そして書く側も、売る側も、読む側も、誰も想像していませんでした。
田沼時代のあと、松平定信が、江戸っ子の愛する娯楽を手厳しく規制することを。
田沼意知の死により消えた未来
田沼意次や田沼意知に近い層は、別の思いを抱いていました。
蘭学者である工藤平助はこう語っています。
「ものすごくよい人だ。善良であんなに素晴らしい人はそうそういない」
工藤は田沼意次の意を受け『赤蝦夷風説考』を記した人物です。田沼父子と親しく、彼らあっての自分だという思いはあったのでしょう。
田沼時代は、蘭学者がいきいきと著述をでき、彼らはこう語り合っていたとか。
父である意次はもう歳だ。しかし、意知は若い。
田沼時代が父だけでなく子まで続くとなると危うい。
だから意知が斬られたのだ。
彼らは、幕府が正式に発表した乱心を信じておりません。
蘭学者と親しくつきあっていたオランダ商館長イサーク・ティチングは落首を書き留めました。
鉢植えて
梅か桜か
咲く花を
誰れたきつけて
佐野に斬らせた
意知という鉢植えは、梅か、桜か、美しく咲くはずだった。それを誰かが焚き付けて、佐野に斬らせた。
開明的とは言い難い幕閣のなか、ただ一人、日本を前に進め、開国をも実現させたかもしれない。
田沼意知は政敵の陰謀により、永遠に失われてしまった。
そんな嘆きが伝わってきます。
かれらは幕閣内部での陰謀により、意知が殺されたと信じていました。
確かに意知の死後、田沼意次は失脚し、その政敵であり、批判の急先鋒であった松平定信が老中をつとめています。
我が子の死という痛恨事を乗り越え、その後も父・意次は邁進していたように思えます。
しかし、その意次も失脚し、わずか一万石の家とされました。
家は意知の息子が継ぐものの、立て続けに早世。田沼家に、かつての権勢はありません。
田沼家だけでなく、田沼時代に咲き誇った開明的な気風も消えてゆきます。
改革は先送りにされ、江戸時代は終焉へと向かってゆくのです。

松平定信/wikipediaより引用
蔦屋重三郎や山東京伝はじめ、大勢が田沼時代を悪様に罵倒し続け、その影響は長らく残りました。
父は贈収賄に耽る悪徳政治家。
子は親の七光りで調子にのるボンボン。
そんな悪印象がこびりつき、長らくフィクションでは悪役の定番でした。
しかし、そんな田沼意次・意知描写は時代遅れとなりました。
田沼時代の開明性、蝦夷地への警戒など、その政策が高く評価されているのです。
NHKドラマでも、そうした高評価は反映されています。
2018年正月時代劇『風雲児たち』、2023年ドラマ10『大奥』シーズン2と、いずれの作品でも、田沼意次は有能な描かれ方でした。
そして『べらぼう』では渡辺謙さんが演じています。
息子の田沼意知は宮沢氷魚さんが演じ、工藤平助が語った好青年であることがうかがえます。
劇中では、女中に気前よく接する姿が描かれたり、父の意次には少し欠けているような他者への気遣いも折に触れて見せています。
それだけに彼の退場は、ドラマの序盤~中盤における最大のハイライトとなるはず。
主人公周辺はそうした状況にどう関わってゆくのか。見守っておきましょう。
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【参考文献】
藤田覚『ミネルヴァ日本評伝選 田沼意次』(→amazon)
他





