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【大岡忠光】
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荒れる将軍世子・家重の小姓として
忠光は宝永6年(1709年)、三百石の旗本・大岡忠利の嫡男として生まれました。
享保7年(1722年)には徳川吉宗に御目見を果たし、才知を認められると家重の小姓に抜擢。
家重13歳、忠光16歳の時でした。
家重には排尿だけでなく、話す言葉が不明瞭であるという重大深刻な欠点もあったのですが、忠光は、彼だけができる才能を発揮します。
皆が理解に苦しむ、家重の不明瞭な言葉を聞き取れたのです。
そのため家重は、そばに忠光がいないと、彼を呼び出すこともしばしばあったほど。
享保9年(1724年)、15歳となった家重が元服して将軍世子とされると、それまで暮らしていた二の丸から西の丸へ移動。
親の目が届かなくなり、ますます酒色に溺れるようになります。
吉宗は、将軍としての自覚を促すべく、家重を鷹狩りに誘ったり、一流の学者である室鳩巣(むろ きゅうそう)をつけたりするも、状態は一向に変わらない。
享保16年(1731年)には正室・比宮増子を迎えながら、意思疎通すらできませんでした。
気鬱になった彼女は、流産がもとで、わずか二年後に亡くなってしまいます。
将軍世子でありながら、あまりに孤独な家重。
彼が暗愚であるとされてしまったのも、言語が通じず、ストレスが溜まったゆえかもしれません。
不安定な家重時代
徳川家重の時代は、農民一揆が多発しています。
彼個人の器量というより、時代によるものでしょう。
一揆が起きた原因は、以下のような状況が考えられました。
・吉宗時代からすでに直面していた停滞感があった(開拓の時代が終わり、維持の時代へ)
・検地による隠し田の摘発推進
・商業の発展により、幕閣と商人が結託し、農民搾取が強まる
・寒冷化による凶作
右肩上がりだった高度成長期が終わり、停滞と安定の時代を迎えたとでも言いましょうか。
父の吉宗は大胆に改革を進めましたが、彼一代では限界がありますし、次の将軍は誰であれ見劣りしたはずです。
享保の改革は失敗か成功か?目安箱や米政策をはじめとした吉宗の手腕
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家重の場合、そこに障害が重なってしまったため、なおのこと悪く言われてしまった一面もある。
経済だけでなく、思想面でも不穏な動きがありました。
宝暦8年(1758年)、京都の国学者であり、神道家である竹内式部敬持が、京都所司代により捕縛される事件が起きました。若い公卿たちに尊皇論を説いていたのです。
この8年後、徳川家治時代の明和3年(1766年)には、尊皇論を説く山県大弐が捕縛され、死罪とされます。
尊皇と倒幕が結びつくのはまだまだ先のことであり、幕末もかなり煮詰まってからのこととなります。
それでも尊皇論は、確かに倒幕へつながる土壌にはなっていたのです。
徳川幕府の悲劇は、よりにもよって徳川を守る御三家の水戸から、尊王攘夷に傾倒する人物が出てくることにありました。
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