大岡忠光

大岡忠光像(龍門寺蔵)/wikipediaより引用

江戸時代

大岡忠光は9代将軍・家重の言葉を聞き取れた稀有な忠臣~庶民からも慕われていた

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大岡忠光
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将軍家重、唯一無二の側近として

誰にも理解されぬ苦しみを抱え、世相も不安定な家重。

そんな彼にとって、言葉が通じる忠光は大きな支えでした。家重の治世と共に、彼を支える忠光も出世してゆきます。

年表で端的にまとめておきましょう。

享保12年(1727年):従五位下出雲守の叙任

享保18年(1733年):800石の知行となる

宝暦元年(1751年):上総勝浦藩1万石の大名に取り立てらる

宝暦4年(1754年):奥兼帯の若年寄に昇進し、5000石を加増

宝暦6年(1756年):吉宗が廃止した側用人に就任すると、5000石が加増され、2万石を得て武蔵岩槻藩主2万石となる

家重は言語が不明瞭なため、実質的には忠光が政治をしているのだと周囲には見えるほど。

そのため、意見を通したければ忠光に贈賄することが慣習となったと指摘されます。

ただ、これは彼一人のことでもなく、政治的プロセスを円滑化するための贈収賄は幕政期には必要悪とも言えました。

度を超えると、問題視されるのです。

忠光の場合、忠光が目をかけた田沼意次と比較すると一層わかりやすいといえます。

当時から賄賂の代表格とされた意次に比べ、忠光は清廉潔白。自領でも民の生活安寧を考えた善政を行い、慈悲深い印象を持たれています。

江戸っ子が偲んだ歌から、そんな評判と敬愛が伝わってきます。

大方は出雲のほかにかみはなし

大岡忠光のような、神様みたいな人はそうそういない――そう惜しまれているのです。

しかし、主君に先立つこと一年、宝暦10年(1760年)に逝去。

その翌年、主君の将軍・家重もまた世を去ったのでした。

忠光は無欲でした。

将軍の権力を傘にきて、権勢を振るうようなこともなく、その評判は、綱吉時代や吉宗時代と比較するとわかりやすいかもしれません。

綱吉の治世では、将軍となる前から付き従い、後に大老格として幕政を取り仕切った柳沢吉保がいました。

柳沢は、学問を好んだ綱吉と同じく、風流を愛した教養あふれる人物。

だからでしょうか。主である綱吉とともにスキャンダルにさらされ、君臣揃って女遊びと贅沢を楽しんでいたという像が定着しています。

綱吉の死後、幕政から身を引いた吉保は、彼なりの潔さはあったものの、後世に伝わる像は毒々しいものです。

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吉宗には、有馬氏倫と加納久通がついていました。

峻烈な有馬と比べ、加納は温厚であったとされながら、それでもその権限は周囲から警戒されています。

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こうした側近の評価や印象とは、主君によって左右されるのもの。

何かと悪評がつきまとう綱吉。

英邁な一方で断行傾向があった吉宗。

そうした印象や時代が、側近たちにも反映されました。

 

家重のあと、ますます不穏が増す世へ

慈悲深く、おごらぬ人柄も愛された大岡忠光。

彼の評価が高いのは、柳沢吉保や家治時代に権勢をふるった田沼意次との比較で、プラスに作用しているのかもしれません。

今の田沼は下劣だ。それと比べたら大岡忠光様はよかった……江戸っ子がそう批判してもおかしくはないのです。

家重の嫡子である家治は、幼い頃から聡明で、考え方のスケールも大きい人物でした。

しかし、その統治には課題が山積しています。

あまりの重さに、聡明な家治はやる気を失ったのか、さほど熱心に政治を行なっていなかったようにすら思えます。家庭的な不幸もあり、覇気に乏しい将軍でした。

そんな家治のもと、田沼意次が幕政改革を目指します。

田沼は実力はあったものの、贈収賄を企んでいるとの悪評に苦しめられました。

理不尽な理由で二男の田沼意知が斬殺された際には、江戸っ子たちから「ざまぁみろ」と皮肉られるほど。

田沼が金に汚いというよりも、経済重視の政策転換が理解されなかったゆえの悲運もあったのでしょう。

経済は時代により変わります。

吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど米に強いこだわりを持ちましたが、すでに時代は貨幣経済への切替が避けられなかったのです。

その負の遺産を清算するために動いた結果が、田沼政治の悲劇でもあるのでしょう。

吉宗時代に解決できなかった問題が先送りされ、短い家重時代に火を吹き始め、家治時代にはさらに悪化してゆく――幕末まであと百年と少し。

この時代に、幕府には徐々に不穏な要素が積み上がってゆきます。

徳川家重に尽くした大岡忠光は、そんな濁りゆく前に輝く星のような人だったといえるでしょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
中江克己『徳川将軍百話』(→amazon
大石学『吉宗と享保の改革』(→amazon

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