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【葛飾北斎】
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歌川国芳と比較して北斎の個性を知る
葛飾北斎はすごい――確かにそうとしか表現できない偉大な存在ですが、北斎という絵師は、彼だけ見ていても実はその個性が把握しにくいかもしれません。
そこで同時期の大物絵師である歌川国芳と比較してみたいと思います。
2023年に慶應義塾ミュージアム・コモンズにて『「さすが!北斎、やるな!!国芳」-浮世絵のマテリアリティ』が開催された両名。
作風だけでなく、生き方や性格まで、比べることで浮かび上がってくることもあるでしょう。
◆コミュニケーション能力
歌川国芳は典型的な江戸っ子。
大勢の門人がいて時に喧嘩もしながらワイワイと作品を描いていました。
彼とその弟子たちは話好きで賑やかで、酒も飲めば喧嘩もするような、江戸っ子らしい生活を送っていました。
一方で北斎は、娘の応為とボロボロの家に暮らし、ともかく変人。
無口で世間話もしない。そんな奇人変人気質でした。
北斎は、酒も煙草も一切やりません。当時の江戸っ子としては珍しいタイプと言えるでしょう。
◆世間の目
歌川国芳は一門単位で人気であり、世間の空気を読んで売れる作品を描こうと意識していました。
世間の需要と合致せず、シリーズが打ち切りになり、悔しがることもしばしば。
一方で北斎は、自分の納得できる絵をとことん追い求める。芸術性そのものを深く追いかけてゆく。肉筆画が多いことも特徴です。
そのストイックな姿勢ゆえに、彼の絵は浮世絵の枠を超えるような境地に達したとされます。
風景画や花鳥画は、中国の影響も受けた文人趣味を備えた高雅なものでした。
北斎の浮世絵はその境地へと誘い、鑑賞者を高みに押し上げます。
◆vs幕府の規制
国芳は幕府の規制をすり抜けるため、様々な工夫をこらしていました。
風刺画も得意です。独自の騙し絵や隠し要素が多く、それを読み解く楽しみもあります。とはいえ、それが後世の鑑賞者にとって難解でもあります。
晩年の北斎は、超然とした隠者のような作風と生き方を選んでいます。
敢えて逆らうよりも、風のように受け止める風格もある――と、これは北斎自身の個性だけでもなく、時代の影響も無関係ではありません。
晩年の北斎は人の代の流れとは無縁の花鳥や風景を描きました。
世の真理を目指すような姿勢の背景には、政治という荒波もあったのです。
◆中国文化の受容
国芳のブレイクは『水滸伝』の挿絵です。いわばサブカルチャーに乗っかった、いけててカッコいい中国趣味の絵を描きました。
北斎は老荘思想への耽溺が指摘されます。
深い精神性を求め、しばしば難解な絵を描きます。
日本は道教の影響はあまり受けていないとみなされますが、北斎の絵は道教信仰を鍵として読み解く必要があるのです。
◆西洋画の受容
そんな国芳は、本気で北斎に入門しようとして、断られました。
浮世絵師最大門派である歌川派の大物が、なにもうちに入門しなくてもいいじゃねえか?と断られたとか。
では国芳は何が学びたかったのでしょう?
北斎が描きこなしていた「紅毛画(おらんだが)」です。
葛飾北斎の作品は、海禁政策をとっていた江戸時代から飛び出しているように思えます。
美しく大胆な構図。生々しいほどの写実性。そしてベルリン由来の「ベロ藍」が生み出す鮮やかな色合い――圧巻の出来です。
そんな北斎だからこそ、オランダ商館長(カピタン)からの依頼もあって、作品を描きました。シーボルトも北斎の作品を求めています。
ただし、浮世絵師の中で、西洋画を取り入れようとしていたのは北斎だけではありません。
歌川国芳はなんとしても西洋画を自作に取り入れたいと強く思い、実際に反映された作品があります。
ところが、国芳の制作環境は北斎と異なります。
国芳は『忠臣蔵』の羲士たちを西洋画タッチで描いた「誠忠義士肖像」を発表。
これが売れず打ち切りになってしまう。国芳は自分の画業を追い求めるよりも、売れ筋を追わねばならなかった。
このように近い時代を受け、互いに敬愛があっても、道は異なる二人の絵師は、比較することで個性が見えてくるでしょう。
歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質
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北斎は我が道をゆく孤高の天才――その仙人のような生き方こそが、時代や国を超える個性を持っていました。
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