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【緒方洪庵】
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塾の気風としては、勉学第一・個性尊重といったところでしょうか。
塾の中では階級があり、蘭学の理解度によって上がっていきました。階級が上がると塾の中でより良い場所が使えるので、みんなやる気を出したといいます。
その他のことについては洪庵はあまり口出しせず、塾生の個性を尊重していました。
門下だった大村益次郎や福澤諭吉があんな感じになったのも、お師匠様のポリシーによるものということでしょう。
生活ぶりについても奔放なもので、これは福澤の回顧録「福翁自伝」がわかりやすい……というかぶっ飛びすぎてて笑えます。
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「事に臨んで賤丈夫となるなかれ」
適塾での蘭学の勉強は、まずオランダ語の文法などの基礎的なことから始まります。
当たり前といえば当たり前ですが、基礎をきっちりやる期間が長いので、医学の実技に入るまでが非常に長いという欠点もありました。
そのため、実家の困窮などによりすぐ医師として身を立てねばならなくなった塾生は、洪庵に頼んで別の塾を紹介してもらうこともあったといいます。
塾の方針を曲げず、適した場所へ移せば、他の塾生からやっかみを買うこともない……ということですかね。理由がわかっていても、いらぬ嫉妬をたぎらせる輩というのはどこにでもいますし。
適塾には毎年十数人~数十人入ってくるので、卒業する人数も多くいました。
洪庵からは最後の教えとして「事に臨んで賤丈夫(せんじょうふ)となるなかれ」という言葉が送られたそうです。
まだまだ西洋医学に対する偏見が強かった中ですから、かなり意訳すると「心無い罵倒などに負けて医学の本質を忘れるな」という意味でしょうか。
ほとんどの卒業生は、故郷に帰って開業医になったようです。洪庵は卒業生ともよく手紙のやり取りをして、治療方針の相談や近況報告などもしあっていたとか。
あまりにイイ人・イイ先生すぎて胡散臭いほどですが、温厚な人柄で知られていた洪庵ですので、本当にこうだったんでしょうね。
むしろ日頃から塾生がアレコレやっても洪庵が何もいわないので「先生が微笑んでいるときのほうが怖かった」と思われていたそうです。塾生は、なんぞやましいことでもあったのか?と……。
デマと戦いながら種痘摂取を推進
さて、洪庵が40歳になるあたりから、世界情勢の変化により、英語の必要性を感じてカリキュラムに取り入れるようになりました。
また、佐賀藩から種痘(天然痘のワクチンのようなもの)を入手し、大坂で除痘館という接種施設を作っています。
後には故郷の足守藩からも要請され、同じ施設を開設しました。
当初は「種痘は牛から作っているから、射たれると牛になってしまう」といったデマが広がり、なかなか進まなかったそうです。
しかし治療費をとらずに努力した結果、接種人数が増えていきました。
うまくいき始めたかと思いきや、今度は偽業者が現れるという有様です。次から次へと出る問題でイライラしたでしょうね。表には出さなかったかもしれませんが。
洪庵はめげずに幕府にかけあい、除痘館だけを公認の種痘接種所にしてもらうことにします。
天然痘という当時屈指の難病を予防した偉業に対し、幕府は奥医師と西洋医学所頭取という職務を与えることで報いようとしました。
洪庵はあまり乗り気ではなかったようですが、お上のいうことなので従い、数十年ぶりに江戸へやってきます。
突如の喀血による窒息
しかしその翌年のことです。
突如の喀血による窒息で亡くなってしまいます。
享年54。
いったい何の病気だったのか。
奥勤めをするようになってからは無用な人付き合いのために出費がかさんだり、蘭学者であることからやっかまれることも多く、かなりのストレスを感じていたともいわれていますので、その辺が原因かもしれません。
洪庵が亡くなった頃は、福沢が文久遣欧使節の任務を終えて帰国し、いろいろと忙しくしていた時期とかぶります。
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もし洪庵の健康がもっていれば、福沢が直接見てきた西洋のあれこれを伝え聞いて、江戸城内で活かすこともできたのでしょうね。
福沢は後に北里柴三郎とも交流を持っておりますし、日本医学の発展がもっと早まったかもしれません。
何とも惜しい話です。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
梅溪昇『緒方洪庵 (人物叢書)』(→amazon)
緒方洪庵/Wikipedia
適塾/Wikipedia